リザはまだ異形化していない左側から回り込む。短機関銃の射線上にある家具が無残に食い散らかされていく中、巨大な腕を掲げていたエリックは無傷。俺の攻撃を防ぎつつ後退していた男は壁際で急停止して、追撃しようと近付いていたリザを狙う。
「さあ、壊れろ!」
「ごめん、それこっちの台詞」
皮肉めいた微笑で黒髪の女は空中を駆ける。後方に宙返りして超質量の激突を躱したリザは、着地と同時に腰から抜いたナイフを投擲。エリックはそれを右腕で防ぐしかない。
リザの強さは索敵能力だけに留まらない。極限まで研ぎ澄まされた動体視力や反射神経は、接近戦での一瞬の駆け引きにおいて真価を発揮する。刹那の瞬間を分割し、僅かな筋肉の動きから敵の次の行動を予測、最短の動作で対応してみせるのだ。
だが、流麗に踊る相棒に見惚れている暇はない。俺は左手に握っていた円筒状の物体をエリックの足元に投げた。
閃光。続いて轟く、世界が壊れるかのような轟音。
殺人的な光と音は目を閉じていた俺の瞼を容易く通過し、両手で塞いでいた耳の機能すら一時的に奪ってしまった。最初から備えていた俺ですらこれだ。至近距離で閃光手榴弾の直撃を受けたエリックの視力と聴力は、もはや機能していないはず。
常人なら確実に気絶したであろう光と音の爆発も、銀使いの耐久力は軽減するだろう。目を押さえながらよろめいているだけのエリックは、確かに化け物だ。だが、今この部屋にいる三匹の内の一つに過ぎない。
耳鳴りが響く世界で交錯する、大小二つの人影。
一瞬ののち、巨体の方のエリックは膝から崩れ落ち始めた。左肩から心臓まで達した深い斬り傷から鮮血が噴出し、リザの横顔を血の雨で染めていく。短機関銃の連射すらも完封する硬度の身体を両断されたエリックの顔面には驚愕があった。痛みや絶望よりも先に、有り得ない現実への解答を求めていた。
「ど、どうしてそんな刃物で、この身体を……、い、いや待て、なん、だそれは……?」
ようやく回復した聴覚が最初に捉えたのは、空間を切り裂くような高音。女の悲鳴にも似た高音の出所を探ると、リザが握る刀が高速で振動していた。直接触れなくても身体を刻めるほどの超高速で振動する刃は物体を切削し、副次的に発生した高温は万物を溶断する。通常を遥かに超える威力を持つ刃は鋼すら薄紙のように両断してしまうのだ。
「光栄に思いなよ。この私が、奥の手を出してやったんだからさ」
銀使いのリザは周囲の音を支配できる。数キロ先の微かな音を拾うことも、自分の周囲の爆音を消すことも、超音波で空間を瞬時に把握することも、今のように高周波を発生させて物体を振動させることも可能だ。銀使い同士の戦闘において、この応用力の高さは脅威となる。
「でもまあ、ほんと、楽しませて貰った」
少女のように屈託のない笑顔を見せるリザに、瀕死の怪物の表情は恐怖に覆われた。
「こここ、この化け物、め!」
「え、何それ。なんかさ、すげー醒めるんだけどそういうの」
リザの紅い瞳に、昏い影が差した。金属分子まで揺らす振動に耐えきれず、ついに刀身が砕ける。白銀の破片が紙吹雪のように虚空に舞い、リザの凍え切った横顔を彩っていく。
エリックの顔には極限の苦痛。哀れな怪物は、心臓に届く致命傷を受けていながらも、まだ死ぬことが出来ていない。銀使いの自然の摂理を無視した生命力は、敗れた男の魂をいまだに地上へと縛り付けていた。死神が緩慢な速度で近付いて、涙すら流す殺人鬼を嘲笑っている。鎌はまだ振られない。圧縮された永遠の中で罪人が罪を悔いても、まだ救いは来ない。
「ああああああああああっっっ! やめろ! 来るなああああああああっっっつつつ!」
そして次に、何かを恐れるように絶叫するのだ。何度も見てきた光景だ。銀使いの最期は、決まってこのような結末を迎える。今まで俺が殺した連中にも、例外は一つも無かった。
死にゆく彼らが恐れているのは死ではない。断じて、そのような生易しいものでは無い。それだけは解る。根拠もないのに解ってしまう。
絶叫するエリックの眉間を、俺が抜いたバラックの九ミリパラべラム弾が撃ち抜いた。男の身体は一瞬の痙攣の後に完全に停止。ようやく死に抱かれた亡骸を見下ろしながら、俺は煙草を取り出した。煙がいつもより苦いのは、きっと気のせいではないのだろう。
「ねえ、ラルフ。死んでいく銀使いは、何から逃げて泣き叫んでるんだろうね」
ついさっきまで戦闘を楽しんでいたリザの声からも、喜びは消え失せていた。
「さてね」紫煙を吐き出しながら俺は言う。「そんなのは、死んでからのお楽しみだ」
精一杯の皮肉が強がりでしかないことくらい、リザには気付かれているだろう。だが彼女は何も言わない。当然だ。お互いに、とっくに理解していた。
精神を餌に手懐けた狂気で、俺たちは全てを喰らってきた。背後に築いた死体の山がどれだけ俺たちを戒めても、構わず進んできた。そのための代償が救いようの無い惨めな死であるというのなら、罪人はそれを甘んじて受け入れるしかない。
俺がエリックにとどめを刺したのは同情からではなく、突きつけられた自分の未来という現実から、少しでも目を背けたかっただけなのだ。
「……くそったれ」
吐き棄てた言葉を拾う者はいない。意味は霧散し、音律は血に汚れた床を転がって爆ぜた。
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