心臓に棲む怪物に精神を浸食された銀使いには罪悪感を感じる機能は無く、殺人という禁忌を破ることに対する躊躇いも存在しないとされている。だとすれば、この胃の底に溜まる泥のような感情は俺の錯覚だ。心臓を締め付ける棘のような疑問は、タチの悪い幻影だ。
冷たい壁面に反響し、地下から幾つもの足音が怒号とともに階段へと近付いてきた。踊り場付近に差し掛かったばかりの俺たちの周りには遮蔽物など一つもないが、それでも恐怖を感じることはない。到着した七人の男たちが、機関銃の銃口をこちらに向けた。
リザが凍るような笑みを残して地面を蹴った。男たちは焦燥に駆られて発砲するも、リザの黒髪が後ろに流れ、無数の弾痕を置き去りにしていく。訓練された軍人ならともかく、ただ強力な武器を持っただけの素人の攻撃が銀使いに当たるわけがない。疾走するリザが囮であることに気付かず、俺を意識から外しているのも大きな失敗だ。
リザが連中の手前で飛翔し、射線から逃げた。その瞬間を逃さず、俺は両手に召還したクリックガンを一斉掃射。死神の息吹はリノリウムの床を蹂躙し、圧倒的な破壊力に晒された人体を瞬時に肉塊に変換していく。鼓膜を劈く轟音を背景音楽にして、大量の空薬莢が足元で踊り狂っていた。
頬に掛かった紅い飛沫を手の甲で拭いながら、閉められた扉の前に二人並んで立つ。
「そういえば」乱れた前髪を直しながら、リザが嘯いた。「家の鍵掛けてくるの忘れてた」
この状況で下らないことを考えていられるリザは、完全に常軌を逸脱している。
「どうせ、家に盗られるようなもんなんて置いてないだろ? 安心しろよ」
「政府にバレない隠し口座作るのも面倒だから、今までの報酬は全部テーブルの上に重ねて置いてんの。それを誰かに見られたら流石にヤバいでしょ」
「……マジかよ。そんな大金を、隠しもせず堂々と放置してるってのか? お前の無神経っぷりが一番ヤベェよ。ああ、鳥肌立ってきた」
「ベッドとテーブルしか置けないような狭い部屋のどこに、隠すスペースがあるんだよ」
「まず、家の中に置くっていうイカレた発想をやめろ」血塗れの俺たちには一番似合わない台詞が、自動的に飛び出した。「この仕事が終わったら、防犯講習に無理矢理連れて行ってやる」
言いながら扉を蹴破るとまず眼に映ったのは、一般企業のオフィスのような空間に浮かぶ、幾つもの銃口だった。憎悪と恐怖が混じった瞳で、十人を超える男たちが拳銃の照準を俺たちに向けている。秩序を裏切り、混沌に身を預けた筈の悪人どもの手は震えていた。
闇のように昏い銃口たちが、一斉に火を噴いた。既に予測していた俺は、右手に警察の機動部隊が使うようなライオットシールドを展開。合金製の頑強な盾が鉛の矢を全て弾いていく。
後ろで銃弾をやり過ごしているリザが舌打ちをしやがった。そんなに暴れたいのかよ。
「ほら。いつもの奴。さっさと渡してよ」
このままでは興奮した相棒に後ろから刺されかねないので、仕方なく要求に従うことにした。左胸の〈銃創〉に干渉し、能力を発動。後ろに回している左手に、一本の〈刀〉を召喚した。それを受け取ったリザが、嬉々とした表情で盾の陰から飛び出していく。
「大人しく暴れろよ? お前がそれ使うと、本気でグロイから」
「はっ、そんなの私には関係ない」
安全圏からわざわざ射線上に入ったリザを、手前にいた二人の男の銃口が追う。距離にして三メートル弱。その距離ならば銃弾が敵の体を射抜く方が早いという二人の判断は、残念ながら完全に間違っていた。男たちの指先が動いて引き金が絞られるよりも早く、白銀の切っ先が左から右に流れ、二丁の拳銃を解体していたのだ。敵の武器を無力化しつつリザは地面を強く蹴る。空中で旋回しながら男たちの首筋や胸部を正確に狙い切断していく。
そこでようやく、残る九人の敵がリザの危険性を理解する。噴水のように飛び出してきた紅い液体をその身に浴びることもなく、既にリザは致死の旋風と化していた。
「あはっ、やばいマジで楽しいっ! あんたらもビビってないで暴れろよッ!」
流れるような動きで身の丈ほどもある刀を振るい、一陣の風となって並んだ机の上を走り抜ける。秒速三〇〇メートルの弾丸の雨が、たった一人の人間を掠めることさえできない。
自らの死を認識する暇すら無く、バラドー商会の構成員たちは次々に二等分されていき、大量の血液と内臓をブチ撒いて嵐に華を加えていく。鼓膜を揺らす悲鳴と吹き荒ぶ血の嵐の中、リザが振るう刃はどうしようもない説得力を伴って、触れた者に死を運んでいた。
「全員は殺すなよ」
ホルスターから抜いたバラックで最小限の援護射撃を行いながら、リザに向かって叫ぶ。
部屋の一番奥、見るからに高級そうな木製の机の上で、リザの乱舞は停止した。刃に付着した血糊を払い、恍惚とした表情で低い天井を仰いでいる。彼女の口許に浮かぶ稚児のような笑みは場違いなほど無邪気で、そして先刻まで淀んでいた紅い瞳は宝玉のように輝いていた。
一種の神々しさすら感じさせる光景に、俺は眩暈を覚えた。戦闘行為を娯楽のように享受し、殺戮という愉悦に浸るような人間が、そんな冗談のような化け物が、この世界に存在していい筈がない。だが、この感情は禁忌だ。人間兵器たる銀使いにとっては、壊れていることこそが正義なのだ。だから俺は、狂った笑顔を貼り付けて言い放たなければならない。
「俺たちの目的ならもう解っている筈だろ? 幸運なクソ野郎共。楽に死にたいなら、銀の弾丸の在り処を吐けよ。……ああ、そうそう。そこのイカレ女は三度の飯より拷問が好きな加虐主義者でね、今もお前らを切り刻みたくてうずうずしてる。一方俺は聖者のように優しく慈悲深き男だ。正直な奴には、なるべく苦痛の少ない死を与えてやるよ」
「ラルフ、私の間違ったイメージを植え付けないでくれる?」
「どう違うんだよ」
銃口を向けて脅しながら三人を一ヶ所に集める。強面の男たちの顔は、一様に恐怖に染まっていた。恐らく一番若いであろう金髪の青年に至っては、嗚咽を漏らしながら泣いている。
「くそッ! ハァ、はっ、きき聞いてた通りだ。しっ、銀使い、てめえらはマジでイカレてやがる! なあおい、早く死んだ方がいいぜ腐れ野郎どもっっつあああああああッッ!」
「なにそれ、遺言? マジウケるんだけど」
やけくそになって怒鳴り散らしてきた中年男の太腿を、リザは冷笑を浮かべながら貫いた。
「てか何? 銀の弾丸を売り捌いてる張本人が、それが何のために使われてるのか知らないわけがないじゃん。そんなもんが大組織の手に渡ってしまう前に食い止めるのが、私らなりの優しさなんだよね。社会貢献ってやつ? 罪のない連中が大勢死ぬよりゴミ虫どもが先に死んだ方が合理的だし、なにより私も楽しめるわけだし。だから私の為にも死んで? お願い」
「やめろバカ。そいつはレイナス・バラドー、この組織のボスだ。写真で確認しただろうが」
「だって私、興味ないことはすぐ忘れちゃうし。こいつが銀使いでも雇ってくれてたんならもっと楽しかったんだけど」
「この戦闘狂が」呆れすぎて皮肉も出てこない。「縁起でもねえこと言ってんじゃねえよ」
苦悶に呻く白髪頭の男の顎を持ち上げ、無理やり目を合わせる。逃場のない殺意は脆い精神を砕き、決意を崩壊させる。男は申し訳なさそうな顔で二人の部下の顔を交互に見る。自らのボスが賊に屈服したのを見て、哀れな部下たちは肩を落とした。金髪の男に至っては子供のように泣き喚いている。危うく同情心を抱きかけた俺を、リザの真紅の瞳が見ていた。
「……分かってる」
リザは俺の弱さを知っている。化け物でありながら、人間に未練を持つ俺の惨めさを。だがそれを声に出して指摘しないのは、あいつなりの配慮なのだろう。
迷いを押し退け、バラックの銃身をレイナスの口内に突き入れる。前歯が砕ける感触が銃身を伝ってきた。更に深く突き入れると、レイナスは最奥の壁、大きな本棚の方向を指差した。
バラックを抜く。唾液と血液、更には胃液が糸を引いて銃身に纏わりつく。ようやく呼吸を整えた男が指示したのは、本棚の下から三段目、分厚い辞書によって隠蔽されている、壁に嵌められた隠し金庫だった。恐怖に心を折られた男は、こちらが優しく訊くまでもなく、金庫の番号まで教えてくれた。十二桁の数字を暗唱することで襲撃者の赦しを得られたとでも勘違いしたのか、レイナスは威勢よく叫ぶ。
「はっ、はっ、てっ、てめえらは必ず後悔するぞ! 後で絶対に殺してや」
「あっそ」
唾を飛ばしながら喚く往生際の悪いボスが、突然静かになった。見ると、皺だらけの眉間に禍々しい形状のコンバットナイフが突き刺さっていた。
「リザ、番号が本物かどうかも分からねえのに何殺してんだよ」
「こいつの心音に嘘は無かった」
「はっ、そうかよ」
リザは聞き出した番号を入力し、金庫の電子ロックを解除する。しかしその中に入っていたのは白い封筒が一つのみ。捜している銀の弾丸はおろか、現金や通帳すらなかった。
焦りと共に封筒を破くと、中から出てきたのは一枚の黒い手紙。左腕が生えた片目の様なふざけたマークと共に、洒落た字体で「ドラッグ・パーティーにようこそ」とだけあった。普通に考えるなら、既に何者かが銀の弾丸を持ち出しており、そいつはありもしないものを巡って殺し合う俺たちを嘲笑うためにこいつを用意したということだ。
「どういうことだ?」動揺を隠せていないのが自分でもわかる。嘘ならリザが見抜くはずだ。「こいつが嘘を言ってないのなら、誰かがボスに内緒で持ち出したってことか?」
「あんまり現実的じゃないと思うけど。でも少なくとも、レイナスは何も知らなかった」
「じゃあ一体、どういう」
疑問を口に出したその瞬間、死の予感が頬を撫でた。
殺気の正体を察知するよりも先にライオットシールドを出して備える。響き渡る轟音。突然の事態に身体が硬直してしまって動けない。ああ、これは間違いない。間違いなくさっきまでのやつらとは種類の違う殺意だ。すなわち、化け物の放つ殺意である。