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 陽が沈んで、すっかり暗くなった小路を二人で歩く。
 濃紺色の空には丸い月が所在無げに浮き、流れる雲の間を彷徨っていた。
 昼間の心地よい気温が?みたいだ。冷え切った夜風で真っ黒な街路樹がザワザワと揺れる度に、カノンは両腕を抱えて身震いをする。
 カノンと水無月が住む小さな一軒家は、春海が独身の頃に工房として持っていたものだ。製作に没頭できるよう、イエッセルでも田舎のほうにぽつんと建っている。
 その屋根が見えてきた頃、共和国軍の事情聴取から解放されてここまで、ずっと黙りこくっていたカノンは切り出した。
「……どうして、あんなことをしたの?」
「おまえは俺の行動理由を一々訊かないとわからないのか」
「誤魔化さないで。自分が何をやったのかわかってるはず」
 ヴィルヘルムは逃したものの、人質は全員、共和国軍に救出された。負傷者は病院へ搬送され、血塗れの水無月も怪我をしていると思われ病院送りになるところだったが、頑なに拒否した。カノンに「彼、子供なんです! 病院に連れて行くと泣いて逃げ出すんです!」と必死に言われる屈辱にも耐えて、難を逃れた。
 その際、リタと兵士たちが話しているのを聞いたのだ。
『我々が到着したときには既に、バックヤードに三十七名分のヴァンパイア革命軍の戦闘服と灰が落ちていました。何者かが彼らを殺害したようです』
 時間が経てば、吸血鬼の死体は灰に変わる。
「たくさん吸血鬼を殺して、あんなに人がいる中で人間離れした動きをして、暗器まで使って、正体を教えているようなものじゃない。バレないようにっていつも言っているのに……!」
「そうしなければおまえは救えなかった。対吸血鬼戦闘用オートマタとしての特性を活かさずに人質救出作戦を遂行することは不可能だった」
「だから、誰があなたにそんなことをしろと言ったの!? 人質を助けるのは軍に任せておけばよかったでしょ!」
 金切り声で叫ばれて初めて、水無月はカノンの言った「あんなこと」が自分の認識していたものと微妙に違うことに気が付いた。
「どうして水無月が戦って人質を救うの。犯人が吸血鬼だからとか、わたしが人質だったからとか、そんなの関係ない。水無月は何もしないで、わたしたちが解放されるのを大人しく待っていればよかったの。いつもそう。水無月は勝手なことして、わたしの言うこと全然聞かない。今日だって、わたしは水無月に助けてなんて言ってない!」
 ぎり、と水無月は奥歯を噛み締めた。
 なんなんだ。吸血鬼を殺害したことならまだしも、人質を助けたことまで非難される謂われはないだろう。
「ふざけるな。『敵』を倒すのが俺の役目だ。目的だ。それを果たして何が悪い?」
「だから、敵って何? 今は十年前じゃないの。水無月が作られた頃とは国の情勢も法律も違うの」
「それくらい把握している。おまえよりはるかに正確にな。俺の記憶容量をナメるな」
「だったら、水無月の正体がバレたらマズいのもわかるよね!? 水無月が表立って余計なことをしたら、その分危険なの!」
「余計なことだと!? 聞き捨てならないな。俺が出て行かなければおまえは死んでいた。吸血鬼に縊り殺されたかったのか? 助けられておきながら、俺の存在理由を侮辱するな!」
「助かっても、水無月の正体がバレたら意味がない。どうしてそれがわからないの! 水無月こそ正体がバレて壊されたいの!? 他の《白檀式》みたいに動力を切られて博物館に飾られたいの!? それで水無月はいいの!?」
「ああ、構わないさ! 目的を果たして壊されるなら本望だ! 本当なら俺だってガラスケースに収まるはずだったんだ。それをこんな平和ボケした時代に起動させられて、意味もなく生活させられて……俺はこんな未来、見たくなかった! 壊されたところで知ったことかっ!!」

 ―――パンッ。

 乾いた音が頬で鳴った。
 何が起きたのか水無月の目は捉えている。
 勢いよく振られたカノンの手が自分の頬を打ったのだ。
「…………何の真似だ? 俺に痛覚がないのを忘れたか?」
 そうは言ったものの、水無月は内心で動揺していた。
 そんなことをされたのは初めてだったから、というのもある。けれど、もっと不可解なことに、カノンに叩かれた瞬間、胸の奥がズキリと重くなったのだ。
 打たれたのは水無月なのに、カノンは自分が引っ叩かれたような表情をしていた。
「……なんで、壊れてもいいなんて言うの? たった一つ、お母さんがわたしに遺してくれたオートマタなのに。壊れていいわけがない。わたしに《白檀式》の無実を証明する手段は、水無月しか残っていないのに……!」
 悲痛な声が夜気を裂く。
 証明? 手段?
 思いがけない言葉が出てきて、水無月は呆然とカノンを見つめた。
「――《白檀式》の真のコンセプトは愛」
 唐突にカノンは言った。それを機に、水無月の記憶領域の底で眠っていた記憶データが甦る。
 それは、かつて春海が自分に一度だけ語った言葉でもあった。
 目の前にいる少女と記憶領域の中の母が重なる。
 だが、それは一瞬のことで。
 カノンは縋るように水無月のコートを握り締めた。
「わたしもこれしか聞かされていないから、詳しいことはわからない。だけど、これだけは確信が持てる。ケルナーの悲劇は本来起こるはずがなかった」
 背中を震わせて、大きく息を吸った少女は叫ぶ。
「《白檀式》は虐殺オートマタじゃない。殺すことしかできない残酷なオートマタをお母さんが作るはずがない。わたしが水無月と一緒に暮らして、それを証明するの!」
 何故、カノンは水無月を毎回、食事に誘うのか。
 何故、カノンは水無月を学校へ連れて行くのか。
 何故、カノンは水無月に恋愛映画を観せるのか。
 疑問が氷解した。カノンの押し付けでもままごと遊びでもなかったのだ。彼女は水無月に殺すこと以外を教えようとしていた。
 考えてみれば、おかしなことだった。水無月の正体を本当に隠しておきたければ、水無月を起動させずに家へ置いておけばいいのだ。わざわざ火種を持ち歩いて、危険と隣り合わせになることはない。
 けれど、カノンに初めて起こされて以来、水無月が起こされなかった日は一日もない。
 どこへ行くにしてもカノンは水無月を伴い、同じ景色を見せて、同じことを経験させた。リスクがあっても、カノンは水無月を成長させることを選択したのだ。
 水無月が言葉もなく見つめていると、少女の瞳はみるみるうちに潤み始める。
「お母さんと《白檀式》が全部悪いみたいに言われるのはもう嫌なの。波動歯車を使っただけでいじめられるのはもう嫌なの。誰もわかってくれないっ……なんで、誰もっ……うあああああん!!」
 ……カノンが泣くのを初めて見た。
 今まで堪えていたすべてを吐き出すように、カノンは全身を震わせ、大声で泣きじゃくっている。少女の瞳からとめどなく流れていく大粒の水滴に、朧げな月光が反射してキラリと光った。濡れる頬をしきりに手で拭っては、カノンはみっともなく、ぐずぐずと鼻を啜る。
 彼女が十五歳の少女であるのを今さらながらに認識した。
 級友のいじめを無感動に受け流す少女はそこにいなかった。
 両親を亡くし、身分を偽り、世間から疎外された孤独な少女の剥き出しの姿がそこにあった。
 弱さを曝け出す彼女を目の当たりにし、水無月は思う。
 戦うのを放棄していたのは、一体、どちらだったのか――。
 カノンは級友の嫌がらせを諦めて受け入れていたのではなかった。言い返さなかったのは、言い返すだけに足る証拠がないからだ。
 波動歯車に拘るのもそうだ。カノンは自らのオートマタに波動歯車を使うことで、それが危険ではないと世間へ証明しようとしていた。
 悔しくなかったんじゃない。何も感じていなかったんじゃない。彼女は誰よりも母や《白檀式》が貶められるのが辛かった。たった独りで――本当なら味方であるはずの水無月にすら理解されずに、耐えていた。
 水無月が気付かなかっただけで、彼女は行動でしっかり反抗していたのだ。
 それに比べ、彼女の意を汲むことなく、ただ不貞腐れて毎日を過ごしてきた自分の何と愚かしいことか。
 何をやっていたんだ、俺は。
 胸を衝かれた水無月は恥じ入るように俯いた。
 泣いている少女をどうしてやればよいか絡繰少年は知らない。
 夜の帳は泣きじゃくる少女と立ち尽くす少年を等しく包んでいく。
 やがてカノンは独りでに涙を収め、歩き出す。その背へ水無月はぶっきらぼうに言った。
「……今後はおまえの言うことを聞く」
 カノンの背中が震えた。
 少女は振り返ることなく歩く。長い白銀の髪が上下に揺れて、一つ頷いたように見えた。
 水無月はカノンの後を追った。
 夜空の月だけが距離を縮めていく二人を見ていた。

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