おええええ、と人工胃袋から溢れていた分をトイレに吐いた水無月は、虚空を睨んだ。
食事、トラップ多すぎだろ。
食卓で人間になりきるのがこんなに大変だとは思わなかった。
水無月はあくまで戦闘用オートマタなのだから、食事に関する知識が著しく乏しかったり、胃の容量が少なかったりしても仕方がない。だが、吸血鬼の前で失態を重ねてしまったのは、水無月を落ち込ませるには十分だった。
こんなとき、兄姉だったら上手くやれたんだろうか。
ふと《白檀式》として名を馳せている五体を思い浮かべる。記憶領域に残っている彼らの姿は鮮明に思い出せるが、今ではどこか遠い存在だ。
英雄と謳われた栄光。暴走により犯した罪。眠らされていた水無月は、どちらも知らない。他人事なのだ。
『不適合』と春海に見限られた自分は、兄姉と同じ戦場に立つことすら許されなかったのだから――。
物思いに沈みそうになって、水無月は頭を振った。
早くカノンたちのところへ戻ろう。あまり遅いと変に思われてしまう。
手を洗ってトイレを出たとき、横から走ってきた吸血鬼の男性とぶつかった。咄嗟に暗器を出しそうになったが、すんでのところで体術で受け流す。床に転がった吸血鬼を水無月は冷淡に見下ろした。
「すまない。キミ、大丈夫か?」
「見ての通りだ」
床にいる吸血鬼に心配されるという妙な居心地の悪さを覚えつつも、水無月は答える。その間にもたくさんの人間や吸血鬼が同じ方向へ走っていくのを見て、水無月は首を傾げた。何か博物館でイベントでもあるのだろうか?
「キミも早く逃げたほうがいい。人間だろう? 奴らに捕まるぞ」
起き上がった吸血鬼は服を払いながら、水無月を値踏みするみたいに見た。
「奴ら?」
「ヴァンパイア革命軍だ。レストランにいた人間を捕まえて人質にしているらしい」
息を呑んだ。
吸血鬼が行ってしまってから、水無月は記憶領域を検索する。
ヴァンパイア至上主義過激派組織、ヴァンパイア革命軍。吸血鬼王ルートヴィヒの弟、ヴィルヘルム=ルートヴィヒが擁する、吸血鬼がすべての人間を支配する世界を実現するための組織。人間を家畜のように扱い、その残虐性からヘルヴァイツ国内の吸血鬼にも嫌われている。
危険な吸血鬼集団にマスターが囚われた。
――つまり、『敵』だ。
思わず水無月は身震いをしていた。
ひたひたと胸に静かな激情が押し寄せてくる。
周囲の人々が混乱と恐怖の渦に巻き込まれていく中、水無月はただ一人、使命感をもって歩き出した。
※
レストラン棟の裏口は資材の搬入口も兼ねていて、一般人の目につかないところにあった。
屋外からレストランのバックヤードに繋がる唯一のドア。館内の見取り図から水無月はそこを探し当てた。
ドアの脇には迷彩柄の戦闘服を着た二体の吸血鬼が門番よろしく立っている。つばのある帽子を目深にかぶり、手袋もつけて日光対策を万全にしている。彼らの肩には機関銃がかかっていた。
水無月は気負うことなく彼らの視界へ入る。
「すみません」
すぐに二人が機関銃の銃口を向ける。それに驚いたように水無月は両手を挙げた。
「待って! 撃たないで! 僕は博物館に来ていた一般客です!」
武器を所持していないこと、自分が非力な存在であることをアピールする。
アピールには成功したはずだが、吸血鬼たちは銃口を下ろさなかった。けれど、警戒が弱まっているのは表情から窺える。
「なんでそんな奴がここにいるんだよ。あっち行け」
「お願いがあるんです。僕を中へ入れてくれませんか?」
は? と二体が呆けた顔をした。
――誘惑しろ――
頭の中で囁いてきたプログラムに従い、水無月はシナを作って弱々しく言葉を紡ぐ。
「レストランの中に妹がいるんです。僕がトイレに行っている間にこんなことになってしまって、一緒にいてあげたいんです。正面から入ろうとしたら、博物館の警備員に止められてしまって」
水無月の容姿は愛らしい美少年だ。
普段こそ不貞腐れていてそんな雰囲気は出さないが、元来、憂いを孕んだ表情や哀しげな眼差しは尋常じゃなく様になる。
水無月は自らのシャツに手をかけた。ぷちり、と繊細な指でボタンを外す。少年の白い首と滑らかな胸元が露わになった。
「吸血してもいいので、僕を通してもらえませんか?」
媚びるように上目遣いで。いつもより高く作った美声で。
女の子のように長い睫毛も、可愛らしいヘアピンも、カノンにそのつもりはなかっただろうが、敵を誘惑するには役に立つ。
自身に与えられた武器をすべて活かし、水無月は思わず噛みつきたくなる幼気な少年を演じ切る。
吸血鬼たちの喉が動くのを見た。
「おいおい、奴隷志願かよ。こいつ、俺たちの〈魅了〉を知らないのか」
「いいぞ。おまえ、入れてやるからこっちに来いよ」
ニタニタと嗤う彼らに、水無月は怯えたフリをして歩み寄る。ドアまであと数歩のところで、ぐい、と右の吸血鬼に腕を引かれた。
「入るのは〈魅了〉をかけた後だ。まずは血をもらうぞ」
敵の牙が首に埋まった。その刹那、
――『敵』を認識。戦闘モードへ移行――
少年の瞳に殺意が灯った。
敵の胸に添えた右手からアサシンブレードが顕現し、心臓を貫く。
「独り占めすんなよ。俺の分も……」
左手の四連装拳銃から無音で放たれた銃弾を心臓に浴びたもう一体は、言葉の途中で絶命した。
二体の吸血鬼がほぼ同時に息絶え、崩れ落ちる。
暗器を仕舞い、水無月はドアを開けた。
古びた蛍光灯に照らされたバックヤードの廊下に人気はない。陰気臭いそこへ足を踏み入れた水無月は、さっきとはまったく違う低い声で呟いた。
「潜入成功。これより、敵の殲滅および人質救出作戦に入る」
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