*

 歌が聞こえた。
 恐らく歌っている本人にしか聞こえないほどの密かな声だったが、どうしてかウォレスにはよく聞こえる。全てを委ねてしまいたいような心地良さと、全てを見透かされたような居心地の悪さ。優しげなその歌声に、ウォレスはどうしようもなく泣きたくなった。
 塔の上にある扉を手馴れた手付きで開ける。木板の軋む音がした。
 部屋に入って少し歩けば、すぐに鏡が見えた。その中で、少女が編み物をしながら歌っている。しかしウォレスを見た途端歌はやみ、楽しそうな笑い声に変わった。
「今日は来ると思ってた」
「歌が聞こえた。鏡に映っていない時から。そういえば、あんたに初めて会った時も、聞こえた。俺は鏡の前に立っていないのに」
 この現象はいまだ謎のままだが、繋がる条件として、二人が同時に鏡の前に立っていなければならない。映っていないと、姿はおろか、声も届かないのだ。けれど、ルチアの歌声だけは、ウォレスが鏡の前に立っていなくても聞こえる。
「そうだったかしら。あ、そうだ、あの時も隠れているのが退屈で、口ずさんでいたわ」
 疑問を口に出しつつ、ルチアはさして気にしていないようだった。
 色とりどりの魔法石の欠片が入った木箱を腋に押しやり、身体を伸ばす。今日は萌黄色のワンピースを着ていて、ルチアの火のように赤い髪を際立たせていた。
「歌には魔力が籠りやすいっていうから」
 ウォレスと会話する態勢になったルチアが言った。
「だから俺にまで聞こえたってことか?」
「どうかな。それよりもあなたは、ここに来なかった間の話を、私に聞かせるべきでしょう?」
 ルチアにねだられるまま、ウォレスはアランがやってきた時の話をした。
 結局アランは三日間図書館に居候し、物珍しげに館内を歩き回っていた。金にならない景色は面白くないのではと問えば、土産話はお金になりますよと笑って返された。
「図書館を案内したお礼に、旅の話を聞かせてくれたんだ」
 アランは話し上手で、自身の体験談を、面白おかしくウォレスに聞かせた。恐らく嘘も混じっているだろう。魔王に腐食されかけたこの世界が、そんなに明るく楽しい話ばかりのわけがない。それでも、ウォレスは夢中で聞き入った。
 早朝手を振って旅立ったアランの後ろ姿に、喪失感があったのも事実だ。
「それで三日間も私と会ってくれなかったの?」
「…………悪かったよ」
 ウォレスは謝ったが、やはり言葉ほどルチアは気にしていないようだ。
「ふふ。嘘だって。ここは私の秘密基地で、元々来るのが日課だったし、そんなに寂しくないわ。そもそも二人とも違う場所で生活してるんだもん。予定が合わない時は仕方ないって、そういう約束でしょ? 私だって、来られない時があるもの」
 達観していたらしていたで、少し寂しいような気もする。多少は怒ってほしいと思ってしまうのは、わがままだろうか。
「普段誰も来ない図書館に人が来て、少し浮かれていたんだ」
「よかったわね。旅の話かあ。私も聞いてみたかったな」
 ルチアは会ったこともない旅商人に思いを馳せているようだ。
「フレイラに来る旅人に聞けばいい。はじまりの町なんだから。大勢の旅人が来るんだろ?」
「はじまりの町だからこそ、ろくな旅話が聞けないんじゃない。あなたの所まで行くような根性のある旅人は、そういないわ」
 頬を膨らませて、ルチアが言った。
「あんたは外の世界に生きているんだから、旅に出ようとすれば、いつでも出られるだろ?」
「…………私は弱虫だから」
 返って来た言葉に、ウォレスは驚く。
「白妙の森に入った時のあんたは、すごく勇敢だったじゃないか」
 ルチアは困ったように微笑む。
「あなたは見てないでしょ。あの時は必死だったし、それに、魔物があんなに凶暴化しているなんて、知らなかったもの。私は弱虫の意気地なしよ。外の世界に憧れて、でも出ていけない意気地なし。あなたと一緒」
 突然ルチアの目が悲しみに染まったような気がした。
「……俺は出ていかないんじゃない。出られないんだ」
 自身の非を理解した上で弁解を行う罪人のように、ウォレスはルチアから目を逸らした。
「似たようなものだわ。私だって町という共同体に首輪を付けられて、出ていけない。あなたにはわからないと思うけど、共同体で生きていくってことは、その場に居続けるってことなの。穴の中の兎みたいに、温かくて安全で、でも時々息苦しくなる。そんな感じ。だから時々この鏡は、そんな弱虫な私たちに息継ぎさせる、空気穴なんじゃないかと思うの」
 ルチアは鏡を撫でながらそう言った。
「…………ルチアは、町の外の世界に憧れるのか?」
「時々よ。誰にでもあることだわ」
 言葉とは裏腹に、切望しているように聞こえた。
 ルチアはそういうが、彼女が弱虫の意気地なしだとは、ウォレスには到底思えなかった。それよりも自分の方がずっと弱虫だと思う。ぬるま湯に浸かるようにその生活を甘受している。己がここにいることを疑問に思いながらだ。
「ああ、俺にも時々ある」
「勇者様が旅立った時だって、私に勇気があれば付いて行ったかもしれない」
「それは困るな。鏡の前に立ってくれる奴がいなくなる」
 真面目にウォレスが受けとめると、ルチアは一瞬動かなくなって、やがてまた笑い出した。
「ふふふ、そうね。ウォレスは私がいないと駄目なのよね」
「そこまでは言ってないだろ」
 笑われたことに腹が立って、語尾を強める。しかし、少女の笑い声は止まらない。
「あはは、やっぱり私、あなたが他の人と楽しくお話していたことに、やきもちを焼いていたみたい。羨ましかったのよ、その商人さんがあなたと直接会えて。私だってまだ直接会ったことないのに。ふふ、じゃなかったら、こんなつまらない話、しないもの。意地悪なこと言って、ごめんね」
 はぐらかされた気分だった。しかし、やきもちを焼かれるというのは、決して嫌な気分ではなかった。どこかむず痒い。
「あの商人とは、こうやって鏡越しに会話したことはないぞ」
「あはは、確かにそうだったわ」
 あまりにもルチアが笑うものだから、ウォレスまで口が歪んでしまった。
「もしルチアが来たら、あの商人よりずっと特別待遇してやるよ」
「私が本好きじゃないって、知っているくせに」
 自分たちは似ている。
 どこか臆病で、遠くのものに憧れては、憧れたものに執着心を見せる。
 とても似ている。まるで鏡みたいだ。ウォレスはそう思った。

     *

 抜けるような青空が、窓の形に切り取られて見えた。巨大な生物のような雲の塊が、ゆっくりと窓を横切って行く。
「鳥籠みたいだ」
 はなれのようなこぢんまりとした館の廊下を歩きながら、ウォレスは呟いた。この図書館は大きな大きな鳥籠のようで、もちろん中に入れられた鳥は自分だ。己の力では外に出ることも叶わず、その中でせいぜい鳴くことしか出来ない。
 では、飼い主は誰なのだろう。
 そんなことを思いながら、ウォレスは廊下を突き当りまで進む。廊下の端には、目立たない扉があった。ウォレスが扉を叩くと、
「どうぞ」
 扉越しに声が返ってきた。
「入るぞ」
 声をかけてから、扉を開けた。
 板張りの床が剥き出したままの、質素な部屋。客室よりも質素かもしれない。家具は白塗りのベッドと、小さな机と丸椅子。それから古びたチェストがひとつだけ。
 丸椅子には、鳥を机の上に乗せて餌を食べさせようとする、リィリが座っていた。ここは彼女の部屋だ。ウォレスも入るのは初めてだった。
 あまりじろじろ見ても悪いので、早々に話しかける。
「鳥は元気になったか?」
「はい。マスター」
 リィリはミルクに浸したパン屑を茶さじで、なかば強引に鳥の口に運んでいた。茶斑の鳥は、若干迷惑そうにしながらもそれを享受している。くしゃくしゃになった毛布に包まれた鳥は少しふっくらしたようだったが、羽はまだ身体から奇妙に浮き出ていて、具合が悪そうだった。
「リィリ、そんなに無理やり食べさせることもないだろ」
「はい。しかし沢山食べておかないと、外の世界に出ても生きていけないのでは?」
 言いながらも、ウォレスの言葉通りにリィリは手を緩めた。
「それもそうだけど、動いてないんだから、そこまでの餌を必要としてないと思うぞ」
「わかりました。椅子をご用意します」
 茶さじを机に置き、立ち上がろうとするリィリを、手で止める。
「いいよ、そんなに時間はかからない」
「はい。マスター」
 リィリはいつものように返事をして、大人しく座り直す。
「まさかリィリがこれからの鳥の心配をすると思わなかった」
 ウォレスが思ったことをそのまま言葉にすると、リィリはいつものように首を傾げる。
「心配ではなく、マスターがこの子はお客様だと言いました。お客様には、おもてなしをするものだと聞いています。間違っていたでしょうか?」
「間違ってないよ。それでいい」
 ウォレスは肯定して、懐から翡翠色の液体が入った小瓶を取り出す。
 何気なく、窓に透かしてみた。空の色と相まって、世界が青緑色に見えた。まるで、秘境の泉からそっと汲んできたような透明感だ。
「すごい秘薬らしい」
 アランによると、とある種族の、とある一族でしか作られない秘薬中の秘薬で、どんな怪我もたちどころに治してしまう万能薬という話だ。当然、効果は実証済みだった。アランが自身の手に傷を付け秘薬を塗ると、たちどころに治ってしまったのだ。まるで手品でも見ているような気になったが、ウォレス自身も試した結果、同じことが起きた。アランの最後の護身用だったらしいが、結界があれば必要ないと、快く譲ってもらったのだ。
 偶然か、鳥もウォレスの手中にある瓶を見た。本来ならばすぐにでも傷の治療をしてやればよかったのだが、アランとの約束もあったし、消耗した体力が回復しないうちに羽が治ってしまっては、また暴れ出して部屋中を飛びまわりかねない。窓に激突して再度保護、なんて状況になったら目も当てられない。飛べない状態なのは、むしろ好都合だった。
 綿に秘薬を数滴垂らし、液が浸透するのを待つ。
「大人しくしてろよ」
 近づくと、鳥はウォレスに敵意のこもった目で睨みつけ、傷ついた羽を膨らませた。リィリは何も言わずに、鳥を押さえる手を強めた。
「人が助けてやろうっていうのに、そんなに怒ることないだろ」
 リィリには大人しく触らせているくせに。ウォレスは心の中でそう付け加えながら、綿を鳥の焦げ茶色をした羽にゆっくりと押し付けた。念のため、しばらくそうしている。
 鳥は萎縮したように体を強張らせた。
「どれくらいで効くんだろうな?」
「リィリにはわかりません」
「俺にもわからないな。恐らく骨が折れているだろうから、そんな短時間じゃないと思うけど」
 そんな会話をしていると、急に鳥が驚いたように顔を上げた。そして、
「あ」
「うおっ」
 弾かれたように暴れ出した。ひどく興奮したように、リィリの手から抜け出そうともがく。怪我をしていた方の羽も、バタつかせようと必死に動かしていた。
「部屋の中を飛びまわると危ないから、そのまま掴んでおけよ」
「はい。マスター」
「ばか、そっとだ。そっと」
「具体的にはどのくらいでしょうか?」
「そんな呑気なこと言ってる場合か! いいから少し力を緩めろ!」
 リィリが小鳥の骨が粉砕しそうなほど強く握りそうな予感がして、慌ててそう釘を刺した。
 小鳥から綿を外し、ウォレスは急いで近くの両開きの窓を全開にした。
「ゆっくり放り投げるように、鳥を外に放してやるんだぞ」
「はい、マスター」
 リィリがゆっくりと立ち上がる。この部屋で唯一、心音も上がっていなければ、動揺もしていない生き物だ。淡々と窓辺まで小鳥を運ぶと、言われた通りゆっくりと鳥を外に投げた。
 バサバサバサッ
 鳥は狂ったように外へ飛び出し、すぐに風に乗って空高く上昇した。
 ウォレスは日差しに目を細めながらも、窓から身を乗り出し、小鳥を目で追う。リィリもそれに倣うように、無言で鳥を見上げていた。
 鳥は自由になり、鳥籠から飛び立ったのだ。自由になった鳥は、旅をするアランのように、どこへ行ってもいい。海を越えても、森の真ん中で羽を休めてもいい。
「あれは多分渡り鳥だ、無事に仲間の元に戻れるといいな」
 そう言いながら、ウォレスはルチアの言葉を思い出す。共同体で生きることも、時として息苦しくなると。自由ではないのだと。その通りなら、この世界に籠の外は存在しないことになる。全てが、籠の中での出来事だ。
 だとしたらあの鳥は、本当に自由なのだろうか。
「それでも、やっぱり…………」
 ウォレスがそう呟いても、リィリは無言のままだった。
 ちっぽけな身体で、鳥は広大な空の海を泳ぐ。そして二人に見せつけるように、ゆっくりと大きく二度、旋回した。それは彼なりのお礼なのか、はたまた自由を謳歌しているだけなのかわからなかったが、少なくとも恨み言ではないような気がした。
「あの鳥は、感謝しているのでしょうか?」
 満足したように飛び去っていく鳥を惜しむ様子もなく、リィリはウォレスに視線を戻した。
「してるんじゃないか。少なくとも俺に向けたような敵意を、リィリには見せなかっただろ?」
 リィリは空を見上げたまま、じっと考え込む。
「確かに、リィリは鳥に触れました。でも、心配するマスターから逃げようとして、リィリに懐くなんて、おかしな鳥です」
「おかしくないよ。なんの感情もないってことは、鳥が恐れるような感情もなかったってことさ。案外野生動物は、リィリのことが好きかもしれない」
「そうでしょうか?」
 窓を閉め、机の上を片付けだしたリィリが言葉を返す。
「リィリはあの鳥が好きだった?」
「好きでも嫌いでもありません」
 鳥籠に入れておくのは、なんの感情もない剥製でも入れておくのが一番いいのかもしれない。なぜリィリは、こんなに無表情なのか。いつか自分のように、今の状況に違和感を覚えたりするのだろうか。
「それでも、看病したリィリと、看病されたあの鳥。お互いが共有した時間は、互いに残るものだよ。どんな形でも」
「…………」
 その後、リィリが傷ついた小動物を見つける度に拾ってくるようになったのは、また別の話。

前へ|・・・|8910111213次へ



購入はこちらから