*

 南門の様子を見に行く最中、リィリを見付けた。渡り廊下を歩いていた時だった。
 透けるような緑が眩しい中庭。花が散り、芽吹いたばかりの若葉たちが生の喜びを精一杯主張するように光を受けて輝いている。うららかな陽気は、昼寝をするには丁度いいかもしれないとウォレスに思わせた。
 そんな暖かな中庭に植えられた林檎の木の下で、リィリが何かしている。木の根を観察するように、指先さえ動かさず、一心に地面を見ている。
「リィリ?」
 ウォレスが近づくと、リィリはようやく顔を上げた。微かに石鹸の香りがした。洗濯をしていたのだろうか。洗濯日和ではあるが。
「マスター……」
「何をしているんだ?」
「鳥が死にかけています」
 その言葉に、ウォレスはドキリとした。今しがたルチアとあんな会話をしたせいだ。
 ウォレスがリィリに視線で誘導された先を見てみると、なるほど一羽の鳥が、根の間に横たわっている。腹から喉にかけて斑がある焦げ茶色の鳥で、ピートより一回り大きい。そして、片方の羽がおかしな方向に曲がってしまっていた。まだ若そうなところを見ると、敵に襲われたというよりは、着地に失敗して、林檎の木に衝突してしまったようだ。少々間抜けな鳥である。鳥自身も動くことを諦めたようで、時々胸部が微かに膨らむ以外に、変化はなかった。
「リィリは、どうしようと思っているんだ?」
 リィリがなぜこの鳥を見ているのか気になって、ウォレスはそう尋ねた。
「この鳥は、もう助からないと思います。今は気温も上がる季節なので、腐敗する前に埋めてしまうか考えていました」
 聞かなければよかったと後悔した。
「…………助けてあげなさい」
 気付かなければそれまでだが、気付いてしまった以上、情の念が湧くのが人間というものではないだろうか。そしてウォレスは、先ほどルチアとピートの仲の良さを見てしまったため、どうも他人事には思えなかったのだ。鳥の世話でもしたら、リィリも少しは人間らしい情が湧くのではないか。
「なぜですか?」
 リィリの質問に、ウォレスは驚いた。いつもの彼女なら、ウォレスが指示すれば、即座に動き出すからだ。
「鳥は嫌いか?」
 苦手ならば無理に押し付けても仕方がない。
「好きでも嫌いでもありません」
「じゃあ、なんで助けるのがいやなんだ?」
「いいえ、嫌ではありません。マスターのご命令なら、リィリは鳥を助けます。ただ、この鳥を助けたところで、マスターやリィリのためになることがあるのでしょうか」
 表情はいつも通りで、しかしリィリは疑問を重ねる。
「もしまた鳥が自力で動けるようになったら、嬉しくなったりしないか?」
 リィリはウォレスを見て、鳥を見た。考えているようだ。
「いいえ、恐らくリィリは、そのような感情にはならないと思います」
 確かに。ウォレスも納得しかけてしまう。
「それは助けてみないと、わからないだろ?」
 リィリは感情を見せない。いや、見せないというよりは、感情を持っていないのかもしれない。図書館で働くメイドに、感情はいらないということなのだろうか。それにしては、図書館よりも、ウォレスに執着しているように時々思えた。気のせいだろうか。
「リィリには、わかりません」
 鳥を見つめたままのリィリは、夏の夜風のように微かな声で言った。
 この時、ウォレスは急に、リィリを憐れに思った。リィリは別に助けを求めているわけでも、表情に影が差したわけでもなかったが、とにかくウォレスは悲しくなった。
 だから、提案した。
「それなら、こういうことにしよう。その鳥は、最果ての図書館に自力で辿り着いた立派なお客様だ。お客様はおもてなしをするものだと決まっているんだ。羽が折れていたら、治療しなければいけないだろ? じゃないと、お客様は無事に帰れないからな。本来なら俺が面倒を見ないといけないが、これから南門を見に行かなくてはいけない。悪いけど、リィリにそのお客様の面倒を見てもらいたい。これでいいか?」
 諭すように、物のわからない子供に言い聞かせるように、ウォレスは言った。
「お客様、ですか?」
「そう、鳥だろうがなんだろうがお客様。ここは図書館なんだから、来たっていいわけだ」
 鳥は動かない。二人の会話を注意深く聞いているようでもあったし、どうでもいいと言いたげに、全く聞いていないようでもあった。
「わかりました、リィリが面倒をみます」
「それでいい」
 ウォレスは鳥に近づき、注意深く抱き上げた。当然のことながら鳥は驚いて、残っていた力を振り絞って逃げようと羽をばたつかせた。
「おっと、大人しくしろよ」
 鳥にそう言いながら、動く方の翼まで傷つけないように気を配りながら、きつく押さえつける。鳥はしばらく暴れていたが、目元を覆うように隠されると、観念したように大人しくなった。もう動く力が残っていなかったのかもしれない。
「ほら」
 リィリに鳥を差し出す。
「ありがとうございます」
 メイドは臆することなく受け取り、エプロンで包むようにして、鳥を抱きかかえた。
 ウォレスは鳥から抜け落ちて付着した羽をローブから払い落とす。
「どこにお連れすればいいでしょうか?」
「看病するなら、自分の部屋がいいんじゃないか? あとでその鳥に関する本を探しておくよ」
 餌や習性を調べておいた方がいいだろう。
「わかりました」
 リィリはそう言うと、ウォレスに一礼した。しかしまだ立ち去らなかった。
「どうかしたのか、下がっていいぞ?」
「マスター、ひとつ質問してもいいでしょうか?」
 ウォレスはまじまじとリィリを見た。
 明日は季節外れの雪でも降るのだろうか。もしくは槍か。リィリとこんなに長く会話したことは、記憶上、一度もなかったはずだ。
「あ、ああ、何だ?」
 多少身構えながらも、ウォレスは頷いた。
「この鳥がまた飛ぶようになったら、マスターは嬉しいのでしょうか?」
「う、嬉しいと、思うけど」
「そうですか。ありがとうございました」
 質問をしたくせに、リィリはその答えにさして興味を示さなかった。礼を言うと、失礼しますと言って、中庭を後にする。すぐに見えなくなった。
 ウォレスは頭をがしがしとかいた。
「やっぱり、よくわからない奴だな」
 林檎の木の下は、ひんやりとしていて気持ちがよかった。新緑と細い枝が光を遮り、地面には摩訶不思議な模様が作られた。時折風に揺れて、模様も一緒に動く。
 ウォレスは目を閉じて、大きく深呼吸した。いつもとは微かに違うにおいがする。
 その違和感を把握したところで、
「いつまでもそこに隠れていないで、そろそろ出てこい」
 渡り廊下を支える柱に向かってそう言った。
「だってよー、メイドがいるのに、あんたに話しかけらんないだろ?」
 柱の陰から、魔物がひょこりと顔を出した。
 くしゃくしゃの紙のような魔物は、身体も軽いらしく、ゆらゆらと宙に浮きながら、こちらへやって来た。
「どうしてそうあいつを怖がるんだ」
 ウォレスが呆れて聞く。
「あんたは知らないだろうけどさ、あいつ、すげー怖いんだぜ。加減を知らないというか、人の痛みをよくわかってないというか、容赦ないんだ。魔法も使わずに素手で握りつぶされた時は、さすがに天に召されるかと思ったよ。それでヒトを握り潰しているくせに、腹を立てているわけでも、なんでもないんだ。とにかくあいつは、得体が知れない」
 魔物はくしゃくしゃな両手を、大げさにかしゃかしゃと鳴らして言った。しかし、ウォレスにも魔物の痛みはよくわからない。リィリが加減を知らなさそうなのには同意するが。
「そのまま天に召されれば、俺の苦労も減っただろうに」
 彼らはたまに、めんどうな悪戯をするのだ。
「お互い退屈しているんだから、たまにはいいだろ」
 全く反省していないようだ。
「それより、何か言いたいことがあって来たんじゃないのか?」
「ああ、そうだ。あんただって気付いてんだろ?」
「南門の方か?」
 リィリと話している時から、気配はしていた。図書館に張り巡らされた結界に、何かが触れたのだ。恐らくこれは、
「お客さんだよ。人間だ」
 今日は驚くことばかりだ。

      *

「馬車でもあれば便利なんだがな」
 南門に辿り着いた時、ウォレスはすでに疲れていた。普段急ぐことなどないので、走るのは苦手だった。
「あ、やっと来た。遅いのだわ、館長さん」
 そう言ったのは、別の魔物だった。ウォレスを連れて来た魔物より、一回り小さい。もっとわらわら群がってくるかと思っていたが、いるのはこの魔物のみのようだった。
「それで、人間はどこにいるんだ」
「こっち、こっち」
 魔物の後を追い、石畳を小走りに進む。
 南門に辿り着いた。
 見上げていると首が痛くなるほど高い石垣の一部に、ぽっかりと怪物が口をひらいたような門があった。その門には格子も扉もない。ただ青白い紋章が点滅しながら薄く光っているだけで、光の先には森が透けて見えた。
「これは、すごいな」
 ウォレスは思わず感心した。
 その光を突き破るように人間の手が一本、図書館側に伸びていた。腕は限りなく地面に近い部分から伸びていて、その他の部分は光の向こうから微かに透けて見えていた。どうやら、倒れ込んでいるらしい。
 さらに傍らには小さな馬のような生き物が、主人の方を見ようともせずに、草を食んでいた。大量の袋が括り付けてある。荷馬のようだ。
「さっきから動かないのよ」
「何か結界を相殺するような護符でも持っているのかもしれない。まあ手を入れただけで力尽きたあたり、護符自体はたいした物じゃないだろうけど。でも、今は魔王のこともあって結界を強化しているから、一概には言えないか」
「そんなことより、どうするのよ。あれ」
 推測するウォレスを叱るように、小さな魔物が言った。
 正直、この図書館を目指す人間がいないこともない。しかしその多くは途中で野垂れ死んでしまうか、魔物に襲われてしまうかしてしまう。そしてそうした人間を、ウォレスはこちらの知ったことではないと思っていた。助けに行けないのだから、そう思うしかない。
 それにしても、これは微妙だ。確かに片腕一本、辿り着いている。しかしこの人間はそろそろ力尽きそうだ。それを助ける義理は、ウォレスにはない。
「どうするもなにも……」
 二匹の魔物が見守る中、ウォレスは倒れている人間に近づく。近づいてみると、その人間が男だとわかった。小馬の荷や男の服装からすると、旅人や冒険者ではなく、商人のように見える。うつ伏せに倒れているせいで、顔までは見えないが、まだ死んではいないようだ。
「おい、あんた、聞こえてるか? というか、生きてるか?」
「…………ううっ」
 呻き声が聞こえた。結界に手を入れてからそこまで時間は経っていないはずだったし、見たところ男に外傷もないようだ。しかし、衰弱している。
「こんなところになんの用だ?」
 かまわず、ウォレスは質問を重ねた。
 男が顔を上げる。無精髭が生え、土と埃で汚れていた。結界に入れていない方の手が、無意識に地面をかく。
 虚ろな瞳でウォレスを見ていたが、やがて焦点が合ってきたのか、
「うう、あ、あなたは、人間…で…か?」
 喘ぐようにそう尋ねた。
「一応な。それで、どうしてここへ?」
「…………私を……中に……」
「……わかった」
 ウォレスが結界に指先を這わすと、青白い光は跡形もなく消えた。男は安心したように腕を地面に降ろし、そして気絶した。
「ちょっと、どうするつもりなのよ?」
「中に運んでやりなさい」
「助けるの? ほっといても、野生動物が片付けてくれるのだわ」
 懸念したように尋ねる魔物に、ウォレスはため息を吐いた。
「腕一本でも自力で図書館の中に入ったんだ。もうお客さんだよ」
「館長さんが言うなら、別にそれでもいいけど。なに、同じ人間だから情でも湧いた?」
「無駄口叩いてないで、早く」
「はいはい。あーあ、これがかわいい女の子だったら、新しいロマンスのはじまりなのに」
 小さい魔物が夢見がちな表情で、手をくしゃりと合わせた。余談ではあるが、彼らに性別という概念は存在しない。つまりこの喋り方は、この魔物の趣味だ。
「誰と誰のロマンスがはじまるんだ?」
「もちろん、館長さんとその女の子に決まっているのだわ。『憂鬱な午後に君と出会う』でちょうど主人公が、林檎の木の下で倒れている美しい女性に一目惚れする場面があるのよ。確かお芝居もあるわ。その台本を仕入れに行く時にちょっと見物したけど、とってもロマンチックな場面よ。だけど、えーっと、そうね、その主人公は二枚目の役者が演じていて、館長さんとはあまり似ていないのだわ」
「お前たちだけで運ぶのが無理そうなら、リィリを連れて来てくれ」
 言うや否や、二匹の魔物は、なかば強引に男の両腕を掴み持ち上げた。よほどリィリに会いに行くのが嫌らしい。リィリが魔物たちにどれだけのことをしたのか、ウォレスは少しだけ心配になる。
「あんまり雑に扱うなよ。人間なんだから」
 宙ぶらりん状態の男を見て、そう釘を刺しておいた。
 魔物と男が館内に向かうのを見届けて、ウォレスは大人しくしていた小馬の手綱を取った。
「行こう、ご主人様も向かった」
 そう言って優しく手綱を引くと、小馬は大人しく付いてきた。パカパカと、蹄が石畳を叩き始める。獣らしいつんとする臭いが鼻についた。
 腕一本でも入ったなら、図書館に来た客とするのは本当だ。図書館は図書館なのだから、来る者は拒まない。人間だから情が湧いたというのも、またその通りだった。ウォレスが図書館の館長としてではなく、ウォレスとして思考を始めてからは特に。それに、このまま野垂れ死んでは、気分が悪い。
 しかしそれよりも、リィリにあんなことを言った後で、男を見殺しにする気にはなれなかったのだ。
「あんたの主は、どんな人だい?」
 小馬の灰色をした鬣(たてがみ)を撫でると、小馬はひとつ嘶いて、その歩を早めた。
 ルチアがいてくれれば、きっとこいつが何を言っているか教えてくれるだろうに。ウォレスはそんなことを考えながら、門を後にした。
 背後には、新しい結界が生成されていた。

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