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昨日寝すぎたせいで体内時計が狂ってしまったウォレスが、眠気眼のまま鏡の前に立つと、もうルチアが待っていた。しかし、藁の上に膝とクッションを抱えて座り込み、顔を完全に埋めてしまっている。いつになく落ち込んだ様子のルチアに、ウォレスは戸惑う。
やはり上手くいかなかったのだろうか。だとしたら、何と声をかければよいものか。
「おはよう」
結局無難に声をかけると、ルチアは初めてこちらに気づいた様子で、のろのろと顔を上げた。
「おはよう……って時間じゃないけどね」
「うるさいな。それより、上手くいかなかったのか?」
その言葉に、ルチアがほんの少しだけ微笑んだ。
「上手くいったよ。思ってた以上に、大成功」
「それはよかった。じゃあなんでそんなに浮かない顔を?」
「昨日たっぷり怒られたからだよ」
「ああ……お疲れ様」
納得して、ようやくウォレスもいつもの木箱に腰を下ろした。
「もう……私、すっごく頑張ったのに。誰にも怪我させてないし、勇者様はあなたの言った通り魔王を倒す旅に出たし、皆もそれをすごく喜んだのに……みんな私を責めて、勇者様が味方してくれなかったら、殴られてたかも。師匠は何となく状況を察してくれたみたいだから、そっちの方は反省文だけで済んだけどさ」
よほどこっぴどく怒られたのだろう。それはわかっていたことで、恐らく彼女自身理解はしているのだろうが、心境は複雑のようだ。
「よく頑張ったな。それに、無事でよかった」
ルチアが望んでいるはずの言葉を本心から言えば、少しだけ機嫌が直ったらしい。
「……うん。勇者様はすごかったよ。もう誰も勇者様を勇者様じゃないなんて言わない」
単純な奴らだな、ウォレスはそう思ったが、心の中に留めた。
ルチアは散らばった藁を人差し指で集めて、束の中へ戻していく。ウォレスはそばに積み上げた本を元の場所に返しに行くには、何往復すればいいか考える。
そうやってしばらく沈黙が続いたが、
「…………でも、本当によかったのかな」
独り言のように、ルチアが呟いた。
「よかったって、何が?」
言わんとすることがわからなくて、聞き返す。
「勇者様と魔導士の女の子。きっと昨日の私なんかより、この先ずっとつらい目に遭うもの」
憂いに陰った表情で、ルチアは遠くを見ていた。旅立った二人を見ているに違いない。見えるはずがないのに。
「そんなの今更だろ」
「うん。そうなんだけど……」
言い淀むルチア。
「けど?」
「……白妙の森に住む魔物がね、想像以上に凶暴化していたの。二人の子供を連れて森に入って進んでいる時、いつもはあんなに温かい森に冷たい風が吹いていて、暗くて、すごくこわかった。そしたら見たこともない魔物が、私たちの帰り道を塞いでいて、慌てて魔法で応戦したんだけど、全然効いていなくて。あなたと約束したのに、このままじゃみんなやられちゃう……。そう思った時に、勇者様たちが助けに来てくれた」
ウォレスは、何も言わず聞いていた。
ルチアが続ける。その身体は、細かく震えていた。
「ホッとして腰が抜けたのは、演技なんかじゃないわ。子供たちにも、本当に悪いことをしてしまった。すごくこわかったと思う。私のせいで、危うく大惨事になってしまうところだったんだもの。勇者様と魔導士の子は、とても強かった。でも、比較的安全な白妙の森で、あんな凶暴な魔物が出てきたのよ? これからもっともっと強大な力を持った魔物が出てくる。魔王を倒すって言ってくれた勇者様に町中が沸いたけど、私は笑えなかった……」
落ち込んでいたのは、怒られたからだけではなかったようだ。
ウォレスはしばらく言葉を探していたが、鏡のそばまで寄って、しゃがみこんだ。座っていたルチアと、目線の高さが一緒になる。
「俺も同罪だ。あんただけが気に病む必要はないと思う」
「ありがと。でもウォレスは私がお願いしたから、一生懸命考えてくれただけでしょ?」
「俺はルチアのために考えた。ルチアはみんなのために実行した。大きな違いはあるか?」
ルチアは少し考えたあと、
「……ない、と、思うわ」
身体から悪いものを取り除こうとするように、長く長く息を吐いてそう答えた。
「それじゃ、罪の意識は半分こってことだ。ついでに自分を擁護するために言っておくが、あんたが実行しなければ、少なくとも勇者と魔導士はもっと酷い扱いを受けていたかもしれない。人間は束になると何をするかわからないからな。みんながやろうとしたことを、ルチアは恐らく一番いい方法でやったんだ。そして誰かが背負わなくちゃいけない罪悪感を、背負った」
「……そうね。くよくよ考えたって仕方ないから、勇者様たちのご無事を願うことにするわ」
「そうしろそうしろ」
ウォレスは微かに口端を上げて言った。
ルチアにもようやく笑顔が戻って、
「それじゃあ、反省文書くの、手伝ってくれるよね?」
そう言った。眩しいほどの笑顔だった。
「……断ったはずだぞ」
ルチアは、ご丁寧に木箱を鏡の前に置いた。そしてウォレスの死角から、羊皮紙やら羽ペンやらを次々と取り出した。最初からそのつもりだったようだ。
「罪の意識は半分こ。反省文だって半分こだよね?」
有無を言わせないルチアに、ウォレスは渋々頷いたのだった。
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