*

「俺たち二人が同時に鏡の映る範囲に立っている時だけ、鏡同士が繋がるらしいな」
「みたいね」
 出会った日の翌日、ルチアの宣言通りに、二人は鏡越しの再会を果たした。
 ウォレスは言葉にこそしなかったが、それはこの上なく喜ばしいことだった。
 それから数日。
 この不思議な距離感にも少し慣れた頃。二人は今日も、鏡を挟んで会話していた。
 今では、世間話をする間柄になっている。といっても、話題を提供するのは大抵ルチアの方だったが。ウォレスはそれで満足だった。
 ルチアと話すことは、とても楽しかった。
「私ね、本を読んだり、勉強したりするのは苦手だけど、自然の声を聴くのは得意なの」
 少しでも居心地をよくしようと、先日持ってきた大量の藁に腰をおろして、ルチアが言った。胸には、お気に入りだというクッションを抱いている。
「そういえば、俺が本は好きじゃないって言った時、親近感が湧くとか言ってたな」
「うん。あなたが堅苦しい話しかしない人じゃなくて、本当によかったわ」
 ルチアが笑って言った。この少女は、よく笑う。
「魔女は勤勉なものじゃないのか?」
「全員が全員じゃないでしょ? それに、魔法は自然を操る力だもの。自然の声を聴くっていうのは、とってもとっても大事なことなのよ」
「例えばどんな声が?」
 興味をそそられて聞いてみれば、ルチアは得意げに説明してくれた。
「やっぱり動物の声が一番聞き取りやすいかしら。木や花は、私たちとは少し違うからちょっと難しいの。動物、それも人間の近くにいる犬や猫、他にも牛や羊なんかは欲求が人間と似ているから、簡単。お腹空いたとか、眠たいとか」
「でもそれって、犬猫を飼っている人間とか、牧畜をやっている人間なら、だいたいわかるんじゃないか?」
 それは魔法ではないような気がする。
「もちろんそれだけじゃないのよ。一番相性がいいのは、鳥たちなんだけど……、あの子たちはお喋りだから。森に行くと、必ず何か話をしてくれるの」
「へえ、子守唄とか?」
「あ、あれ以来お昼寝してないよ……」
 ウォレスの皮肉に、ルチアが顔を赤くして言い返した。
 結局、あの後たっぷりと説教されたらしく、一応反省しているらしい。
「まあ、俺だって昼寝くらいするし、それを見て怒る人間がいるかいないかの違いさ。別に眠くなるのは悪いことじゃない」
 からかってばかりではかわいそうなので、少しだけ擁護すると、
「そうだね、次は見つからないようにする!」
 途端にルチアの目が輝いた。
「…………ほどほどにな」
「うん!」
 何日か話していて気付いたことは、この少女は案外調子がいいということだ。友人も多いようであったし、話題には事欠かない。ウォレスとは正反対と言えた。だからこそこんな奇妙な状況でも、ウォレスと仲良くしてくれるのだろう。
「そういえば、明日は来られないかもしれないの」 
 明るかったルチアの表情が、一転して曇る。
「それは仕方ないけど、なにかあるのか?」
「今まで私たちの町にはあまり影響がなかったんだけど、最近町の西側にある、白妙の森が荒れているの。森の浅い場所で仕事をしていた木こりのビルがね、魔物に襲われて……命に別状はなかったけど、師匠が明日森の様子を見に行くから、店の留守番をしておきなさいって」
 そういった類の情報は、最近図書館の魔物たちがよく噂をしていたので、ウォレスの耳にも入っていた。
「……魔王の影響か?」
 ルチアが頷く。
「そう、やっぱりあなたも知っているのね。魔王が現れて数年経つし、知らないほうがおかしいか……。最近じゃあ、魔王が住むお城の周辺以外にも悪影響が出ているみたいよ。フレイラは魔王のいる場所からかなり離れているけど、それでも最近はこんな状態。怪我人が出てからは、さすがに子供たちも森に入らなくなった。みんな怯えているわ」
 魔王は突如として現れた。
 そのとてつもない魔力を武器に、北の果てにある古城を陣取り、治めた。彼は人間たちを憎み、パライナを憎んだ。
 最初はただの黒い点だった。しかしその点はやがて黒い円になり、今ではパライナ全土を覆うほど巨大な物になっていた。今まで大人しかった魔物たちも、魔王の魔力にあてられて、人を襲うようになった。
 魔物とは本来、人間と対立すべきものであり、人間が侵してはならない領域に存在する、生態系が異なる生き物たちの総称である。意思を持った《空間》が自己防衛のために魔物を生み出す。そのため、ほとんどの魔物は人間に攻撃的ではあるのだが、近年はその《空間》を飛び出してまで人間を襲うというのだ。明らかにおかしかった。
「魔物が持ち場を離れれば、その場所は荒れる。荒れればその場所も朽ちたり攻撃的になったりする。最近、自然災害が増えていると聞くな」
「うちも実りが悪くて……それだけで済んでいるからまだいいけど、北の方は本当にひどいみたい。勇敢な騎士様や討伐体がお城に向かったって話は噂で耳にするけど、帰って来たって話はひとつも聞かないもの」
 いつも明るいルチアが、悲しげにうつむいた。本当に心を痛めているのだろう。
 しかしウォレスは、同情出来る立場ではなかった。
「あなたは大丈夫なの? 最果ての図書館って、北にあるんじゃなかった?」
 ルチアが心配そうに尋ねた。
「確かに北だけど、ここの魔物たちは少し特殊だから、あまり影響を受けないみたいなんだ」
「特殊?」
 ウォレスは、鏡から目を逸らして、部屋の薄暗がりを見た。
「図書館は本を保管する場所だろ? そして本は、人によって書かれたものだ。つまり、人の想いが強い場所なんだよ。ここの魔物たちは、そんな場所から生まれたせいか、ほかの場所の魔物より、頭がいいし、集団で生活しているし、人に興味があるし……それに悪知恵も働く」
「人間臭いのね」
「悪い意味でな」
「仲良くなれないの?」
「まさか。人間臭くても、やっぱり彼らは魔物だよ」
「ふうん?」
 そうかしら、ルチアが呟いた。納得していないようだ。
「それに、この場所自体も結界が張られているから、まあ、当分魔王の配下に置かれる心配はないだろうな」
「へー、すごいのね」
 素直に感心された。
 しかし、ウォレスの心臓は、針に刺されたように痛んだ。
 確かにここの魔物たちは特殊で、ウォレスを襲うようなことはしないだろう。結界が張られているのも事実。簡単に攻め入られるほど、この図書館もウォレスも弱くなかった。この《空間》が持つ力は、とても強い。
 だが、それだけではなかった。この図書館は、中立の立場なのだ。魔王に手を貸すつもりはないが、だからと言って、人間たちに手を貸すつもりもない。
 なるほどここの図書館には、打倒魔王を示唆するような本がある。しかしおいそれと人間にそれを教えることはしなかった。それを教えることは、魔王を敵にまわすことを意味する。魔王との無謀な争いは避けたい。これは図書館の意思。ウォレスはそう汲み取っていた。そして恐らく、魔王も。
 お互いがお互いを軽く凌駕するような力を持っていない。争えば、双方がかなりの打撃をくらう。だから、お互いに干渉しない。そうした暗黙の協定があった。
 この図書館は特別だ。
 上手く立ちまわる姿は人間のようであったが、人間のために存在するわけでもない。ただ存在するのが、この《空間》の存在理由だった。
 ウォレスはそれを、ルチアに言うつもりはなかった。人によっては、裏切りだと感じるだろう。ルチアは優しい。だからこそ、困窮している人々を放っておくことを許さないに違いない。軽蔑されるかもしれない。
 そして最も困ったことに、ウォレス自身が、図書館の意思に反発しようとは思わなかった。中立なら中立でいいと思っていた。余計なことなど、自分たちがする必要はない。
 しかし、ルチアに幻滅されたくはなかった。
「もしルチアが図書館に来ることがあれば、俺の友人として、特別待遇してやるよ」
「行けると思ってる?」
「全然」
 ルチアの眉間に皺がよる。
「あなたって、時々意地悪よね」
 ウォレスは笑った。ルチアと会う前は笑ったことなどなかったのに、一度笑ってみれば、すぐに笑えるようになった。まるで笑い方を知っていたかのように。
 それでも、中立の立場を動く気はなかった。
 まるで魔物たちのような考え方だ。もし世界が闇に包まれて、ルチアが危ない目に遭ったなら、図書館に吹き抜ける風のような冷たいこの考えは変わるのだろうか。ウォレスは笑ったまま、ふとそんなことを思った。

     *
 
「聞いて! すごいのよ、ウォレス!」
 鏡の前に立って早々、ルチアは興奮気味に言った。
「落ち着け、まず水でも一杯飲んで、な?」
 約束の時間よりずいぶん早く来ていたウォレスは、机に置いてあった水差しからカップに水を注ぎ、ルチアに差し出した。
「ありがと、気持ちだけもらっとくね。それをこっちに向けても、私は受け取れないのよ」
 そんなことは百も承知だ。ウォレスは自分で水を飲んだ。
「落ち着いたか?」
「ええ」
 水を飲む代わりに藁にどっかり腰を下ろし、ルチアは息を吐き出した。走って来たのか、その頬は李のように赤く、額にはじんわり汗が滲んでいる。
「それで、どうしたんだ?」
 ルチアが落ち着いたところを見計らって、話をうながす。
「そう、神託、神託があったの!」
「神託?」
 間抜けな顔をしていたのだろう、ルチアも釣られてきょとんとして、
「あ、ごめんね。わからないよね。えーっと、この町から何人も英雄が出ているのは、前に話したよね?」
 説明をはじめた。
「光の勇者さまだろ?」
「そうそう」
「それに王都アネットの現騎士団団長オルカ・メイナードも、商家の娘ながらリンドクラートとの野戦で指揮をとり見事勝利に導いたと言われるバーバラ・フリーデルも、それから――」
 ルチアが目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待って」
「間違ってたか?」
「間違ってないけど、どうしたの、急にそんなに詳しくなっちゃって」
「調べた」
 簡潔かつ明瞭に答える。ルチアと出会った時、はじまりの町についてろくに知らなかったことが、なんとなく悔しかったということは黙っておく。
「そうなの? うん、合ってるんだけど。光の勇者様もそう。それでね、光の勇者様も含めて、偉人が現れた時は必ず、現れますよーって、教会にお告げがあるの!」
 彼女の言う通りの神託なら、ずいぶん間延びした神託である。
「つまり、新しい勇者さまとやらが現れたのか?」
「正解!」
 ぴんぽん、とよくわからない効果音を自身で付けながら、ルチアがはしゃいだように言った。よほど嬉しいのだろう。藁から弾かれるように立ち上がった。
「それはすごい。よかったな」
 特に感激するわけでもなく、ウォレスは言った。問題なのは勇者が現れることではなく、ルチアが喜んでいるかどうかだった。
「でしょ? じつは私、その勇者様にもう会ったのよ。正義感の強そうな、だけど穏やかな少年でね、可愛い魔導士の女の子と一緒に、東の方にある村から旅をして来たみたい。私から見ても、とても勇者様に相応しいと思う。腰に使い古した剣を差していたし、きっと腕もそれなりに立つわ。昨日店番していた時に、魔法石を買いに来たの」
「魔導士がいるのにか?」
 魔導士なら、魔法石なしで何かしらの術が使えるはずだ。
「ああ、その子、水魔法が得意らしいんだけど、フレイラ周辺は、炎の魔法が効く魔物が多いから、買いに来たみたい。それにうちの店、薬草とかも売ってるし」
「なるほど」
「これでやっと希望が見えた、んだけど……」
 今までの勢いは何処へ行ったのか、急に言葉が尻すぼみになった。叱られた子犬のようにしゅんとして、藁の上にゆっくりと腰掛けてしまう。
「何か問題でもあったのか?」
「神託を認めない反発派が多いの。勇者様がとても優しそうなのがいけないみたい。虫も殺せなさそうな軟弱な奴が、勇者のはずがないって。みんなこの前の一件で神経質になってるのよ。でね、それを聞いたのかどうなのか勇者様も謙虚な方で、自分は勇者なんかじゃありませんって言い始めちゃって。かろうじて神官様が説得して、まだ町にはいてもらってるんだけど」
 それは謙虚と言うより、ただ嫌がっているだけではないのか。
 何の変哲もない平凡な少年が、いきなり世界の命運を託されたら、よほどの豪傑ではない限り辞退したくもなるだろう。
 しかもそんな嘘くさい神託とやらのお墨付きだけで、命の保証はどこにもない。ウォレスはその少年に同情したが、口にはしなかった。これ以上ルチアを落胆させる気はない。
「でも神託って、予言みたいなものだろ。別にそこで謙遜していても、旅をしている内にいつの間にか世界を救っちゃってましたー、みたいになるんじゃないのか?」
 ウォレスとしては、慰めるつもりで言ったのだが、
「世界を救うって、そんなに簡単じゃないのよ! 光の勇者様みたいに、堅い決意と、つらい旅でもくじけない不屈の精神がなきゃ、世界なんて救えない!」
 怒られた。
「でも、本人が頷かない限り、どうしようもないだろ」
「そうなんだけど、まだ問題が……」
 歯切れの悪そうな言い方。
「?」
「勇者様本物説肯定派の方がね、強硬手段に出るかもしれない……町の人が噂してたの」
「つまり?」
 ウォレスはなんとなく先が読めた。
「魔導士の子を人質に取って、勇者様を無理やり魔王の元に行かせよう、って話」
「うわあ…………」
 思わず引いた声を出す。えげつない話ではないか。言い換えれば、それほど切羽詰った状況と言えなくもないが。
「そんなのあんまりでしょ、ひどすぎる! そんな卑怯な手で旅立たせても、上手くいくわけないもん!」
 ルチアは力説する。最悪の場面を想像してしまったのか、涙目だ。
「なな、泣くな、よ」
 狼狽えて、情けない声が出てしまった。
「泣いてない。泣いててもしょうがないわ。それより、ウォレス、あなた良い案ないの?」
 ルチアはころりと表情を変え、期待に満ちた目をウォレスに向けた。
「……なんで俺に聞くんだよ」
「だって、なんでも知ってそうじゃない。最果ての図書館の、館長さんなんでしょ?」
 むぅっとウォレスを睨めつけながら、やはり声にはどこか期待がこもっている。
「まさか、買い被りすぎだ」
「そんなこと言わずなんとか考えてよ。私より絶対頭いいんだから」
「まあ、頭は……」
「そこは謙遜するところでしょ!」
 冗談を言いながらも、ウォレスは考える。
 心の隅にある罪悪感を拭うには、いい機会なのではないか。ルチアに助言を与える程度ならば、中立の立場を崩すようなことにはならないだろう。そもそも、いい考えが浮かばなくて元々なのだ。考えるくらい、暇な自分には面倒でもない。ウォレスは、我ながら低劣な考えだと思ったが、偽善でもルチアが喜ぶなら、それでもいいかと思い直した。
「勇者さまたちはいつまでいるんだ?」
「あさってには旅立つって言ってた」
「ってことは、明日までには何かしら策を考えないといけないのか」
 しかし勇者は早くこの町から出たいだろうし、肯定派が本当になにかしでかしてしまうかもしれない。つまり、出来るだけ早く手を打たなければならない。
「考えてくれるの?」
 途端、ルチアの瞳が輝きを増した。現金な奴だなと、苦笑する。
「期待するなよ。それに、そっちも情報収集しておいてくれ」
「わかった。確か勇者様はベーレンズさんの宿屋に泊っているはずだから、しっかり見張っておきます」
「それと、次は明朝に集合な」
 現在、日が沈みそうな時刻だ。一刻の猶予もない。今夜は徹夜かもしれない。ウォレスは喜んでいるルチアにばれないように、こっそりとため息を吐いた。
「ありがとう、ウォレス。あなたがいてくれて、本当によかった」
 ただし、満更でもないのだった。

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