第一章「旅立たせる物語」

 いつからだったか忘れてしまった。
 しかしウォレスはずっと違和感を持っていたし、気のせいだと片付けてしまうには、この場所が好きになれなかったのだ。
「知りたければ自分で調べればいいさ」
 魔物は言った。
 何枚もの紙をくしゃくしゃにして丸めて、なんとか四足の生き物を形作ろうとした。目の前の魔物を言い表すなら、だいたいそんな感じだった。薄目に見れば、なるほど羊程度には見えるかもしれない。顔と思わしき部分に、ぎょろりとした目と、落書きのような口がある。
「お前たちがそれを知っているなら、聞いた方が手っとり早いだろ」
 異形の姿に怯えることなく、ウォレスが言い返す。
 魔物は口をすぼめて見せた。
「わかったよ。つまり、あんたがいつからここに閉じ込められているか、だろ?」
 ウォレスは力強く頷く。
「閉じ込められている、ねえ?」
 魔物は意味深に言って、周辺をぐるりと見渡した。ウォレスもそれに釣られる。
 本、本、本。見渡す限り本しかなかった。
 先が霞みそうなほど長い廊下の両脇に、巨大な木造の書架が延々と置かれている。年期の入った重装なものだが、古ぼけた感じはしない。その書架を装飾するように、色とりどりの本が隙間なく並べられていた。さらに両端には吹き抜けの二階があり、こちらも同様だった。所々、高い場所の本を取るための梯子がかけられている。
 それら以外であるものといえば、明かりを確保するために、等間隔で作られた巨大な玻璃窓くらい。そこから入る斜光に照らし出された埃が、光の粉のようにただようだけで、本たちは完全に沈黙していた。
 この光景は、多少の差はあれども、どこまで行っても似たようなものだということを、ウォレスは知っていた。
「俺がいつからここにいたか、知りたいんだ」
 もう一度魔物の方を見て、ウォレスが言った。
「昨日もいただろ?」
「昨日もいた」
「おとといもいただろ?」
「おとといもいた」
「じゃあ少なくとも、おとといから閉じ込められているわけだ」
 くだらないとでも言いたげに、魔物が結論付ける。
「ふざけないでくれ」
「ふざけてないさ。だってあんたは、ずっと前からここにいたんだもの」
「ずっと前って?」
「ずっと前は、ずっと前だよ」
 魔物は繰り返す。オウムでも、もっと気の利いた返事をしてくれそうなものだ。舌打ちしたくなるのを堪えて、ウォレスはいよいよ語尾を強めた。
「正確な時間が知りたいんだ」
「だから、知りたければ調べればいい。そういうのに、おあつらえ向きだろ。なんていったってここは、最果ての図書館。世界中の本が集まる場所なんだから」
 最果ての図書館。
 この場所がそう呼ばれていると、ウォレスは知識として知っていた。
 必要な知識は、はじめから持っていた。
 魔物は、呆れたようにウォレスを見た。
「いい加減認めようぜ。あんたは俺たち魔物みたいなものさ。俺たち魔物は、この図書館に作られた。図書館には、俺たちが必要だからだ。だから、いつから? とか、なぜ? とか、思うだけ無駄なんだよ。あんただって、図書館に、この《空間》に必要とされているからここにいる。存在意義としては、それで充分だと思うぜ?」
「でも……」
 ウォレスは言い淀んだ。
 俺は魔物じゃなくて人間だ、そう言おうとしたところで、それを遮って魔物は続けた。
「あんたはこの図書館の館長なんだ。ずっと前からな。館長ってやつは、全ての本がどこにあるか把握している。おっと、なんでかなんて聞くなよ? 実際覚えているあんたの方が、よっぽど理解しているんだから。だから、何度も言っているが、どうしても知りたければ自分で調べるのが一番手っとり早い。もう俺たちを捕まえて、その話題を持ち出すのはやめてくれ」
 魔物の言う通り、ウォレスはこの図書館の館長だった。
 だから知っていた。
 ウォレスがいつからこの場所にいたか書かれた本なんて物は、存在しない。
 真実か嘘かは置いておいて、世界の始まりが書かれた本はあるのに、この図書館の創立に関する記述は皆無なのだ。出てくるのはせいぜいお伽噺の中くらい。
 調べなくてもわかる。知っているのだ。さすがに中に書かれた文章までは暗記していなかったが、この図書館にある途方もないほどの本たちが、どの書架に仕舞われ、またどういった類の本なのか、尋ねられれば瞬時に答えることが出来る。
 膨大な知識に、考えるだけで頭がくらくらする。
「さ、俺たちはもう行くぜ」
 そう言った途端、魔物の姿は薄れ、一番近くに置かれた書架の、本と本の隙間へ滑り込むように消えていった。まるで手品のようだったが、ウォレスは驚かない。
 俺たち、と言ったのは、姿は見えないものの、他にも魔物が本の隙間に隠れていたせいだろう。今の会話を、興味津々で盗み聞きしていたに決まっている。ここの魔物たちはいつも退屈していて、娯楽に飢えているのだから。
 だから、ウォレスから離れたのは、今の会話に飽きたからだけではない。
「マスター、御部屋の掃除が終わりました」
 背後から吐息のような声が聞こえて、ウォレスは静かに振り向いた。この長い廊下をいつの間に歩いてきたのか、一人の少女が立っている。
「マスター、御部屋の掃除が終わりました」
 聞こえていないと思ったのか、少女は同じことを繰り返した。
「リィリ、いつからそこに?」
「リィリは今ここに来ました」
 少女は丁寧に答えた。
 柔らかそうな栗色の髪に、冬の月に照らされた、白銀世界のような青白い肌。目鼻立ちも整っていて、一見すると人形のように可愛らしい少女に見える。しかし彼女を人形めいて見せている一番の要因は、整った顔のせいでも、小柄な体躯のせいでもなく、恐ろしいほどの無表情のせいであった。
 無表情のまま、口だけが微かに動く。
「今朝魔物たちが仕入れてきた本も、書斎に揃えてあります」
「わざわざ報告しに来てくれたのか、ありがとう」
 礼の言葉にも、反応がない。愛想笑いもない。
 伏し目がちの瞳は、綺麗な菫色をしているが曇り硝子をはめ込んだようだったし、薄い唇は必要以上に開かれることはなかった。
 静かな図書館でメイドをするには、なるほどうってつけなわけだ、ウォレスは皮肉気味に思った。エプロン姿のリィリは、よくこの図書館に馴染んでいる。
 二人の間に、沈黙はすぐに訪れた。
 リィリには仕事以外の話題はないのだ。しかし、ウォレスが下がっていいというまで、この少女は動かない。
「……何か手伝おうか?」
 沈黙に耐えきれなくなったウォレスが、何気なく尋ねた。
「手伝うとは?」
「皿洗いとか、部屋の掃除とか」
「それはリィリの仕事です。マスターがやる仕事ではありません」
 遠慮しているわけでも、怒っているわけでもなく、彼女は淡々と事実を述べる。
「でも、一人でやるのは大変だろ?」
「お皿洗いも、部屋の掃除も、リィリの仕事です。リィリが仕事をするのは当たり前のことなので、大変ではありません」
「そ、そうか。ならいいんだけど」
「はい。まだ御用はありますか?」
 ウォレスが固まった首をほぐすように、横に振った。
「でしたら、リィリはこれで失礼します」
 音もなくリィリが元来た道を引き返して行く。
 会話をしていたはずなのに、後には何の音も残らない。
 ウォレスは彼女が苦手だった。本当に人形を相手にしているような気分になってしまう。もっともこれは魔物たちも一緒のようで、リィリが来ると、彼らは脱兎のごとく本の隙間に逃げ帰るのだった。
 案の定、少女が去った後、入れ違いで数匹の魔物がウォレスの元へやってきた。
「館長殿、今朝吾輩が仕入れてきた本、一体いつになったら目録に加えるのだ」
 どこか高圧的な魔物の声に、ウォレスは露骨に嫌な顔をした。その魔物は、先ほどの魔物よりずっとくしゃくしゃで、口はへの字に曲げられている。
 彼らは世界中を飛び回り、次々に生まれる本を収集してくる魔物たちだ。出来上がった本を特殊な力で複製し、図書館に収蔵するべく持ち帰ってくるのが彼らの仕事である。そしてそれらの本からまた新たな魔物が生まれるのだ。
「今日中にやれば問題ないだろ」
 肩を竦めるウォレスに、魔物が自虐たっぷりに詰め寄った。
「どうせ吾輩が持ってくるのは大した本じゃないと言いたいのだろう。でもそれは吾輩が悪いのではない。西の大国、リンドクラートの王が死にそうだからとまた自身の伝記をお抱えの作家に書かせた。これで三冊目だぞ! あの者は一体いつになったら死ぬのだ。前王の方がよほど立派だった。《空間》の意思を読み解くのに長けておったからな。現王の伝記全てを合わせても、前王の一年分にも及ばんよ。三十六年前、シェルシーの海戦の開戦間際、彼の者はこう言ったのだ。『我、この海に身を沈めても、我が祖国の――』」
「そっちはどうだった?」
 長くなりそうだと判断したウォレスは、早々に別の魔物に話を振る。悦に入っていた魔物は角度のついた口をますます曲げたが、ウォレスは一向に気にしない。
 話しかけられた別の魔物はもったいぶりながら他の魔物を押し退け、こちらにやって来た。
「詩集を何冊か。あの詩人、シャロポットの谷に住む妖精にまだ魅せられたままみたいですよ。でもねえ、あそこの《空間》は妖精には好意的だけど、人間は嫌いですからね。いつもそこに住む魔物に追い払われるのです。それでまた恋心を募らせて思いの丈を詩に謳う。その詩は意中の妖精に届くことなく、民衆には愛され、本になる。だが彼の魂は永遠に満たされることがない。悲しい宿命を背負わされたものです」
 悲しいと言いながら、その魔物は一種恍惚とした表情で話す。そういう類の話が好きなのだ。
「自分たちの好きな作家に纏わりつくのはかまわないが、他の《空間》をふらふらして、そこの魔物を怒らせるなよ」
「平気ですよ、我々の姿はこの図書館から出れば見えなくなりますし、この図書館の邪魔をする《空間》も、パライナにはあまりないでしょう」
 パライナとは、この世界の総称である。
 最果ての図書館はその端っこに、ひっそりと存在していた。
 伝記を集める魔物が、ずずいと割り込んできた。
「そうだぞ、館長殿。ご承知だろうが、そもそも本が生まれる場所、つまり人間が生きる地の《空間》なんてものは、ほとんど友好的なやつばかりだ。五百七年前、海に沈んだ彼の有名な町イラのように、《空間》を怒らせるなんて馬鹿なことをしなければな」
 彼らの言う通り、このパライナのあらゆる《空間》は意思を持っている。
 人間が持つ意思とは意味合いが多少異なり、世界、自然、時には人が造り上げた《空間》を、《空間》自身が維持しようとする働きを「意思」と呼ぶのだ。《空間》にはそれぞれ核となる部分があり、その核が《空間》の性質を決めると言われている。
 言われている、というのは、核は通常、人に姿を見せないからだ。基本的に《空間》は自然を捻じ曲げる人間たちを嫌い、魔物を生み出し人間を排除しようとするため、人間たちは数少ない友好的な《空間》か、そもそも意思を持たない《空間》に住むようになった。
 むやみに《空間》を侵さず、適切な距離を保つことが、この世界を生きる術だ。
「わかったわかった。お前たちに任せるから」
 とめようとしたが、魔物の舌は動き続ける。
「人とは愚かなものよ。遺跡の町フェルゼンの話はしたかな。あそこの王も禁忌の業に魅せられ、ゴーレムという異形の存在を創り上げた。そして《空間》の反感を買い、《空間》の僕となったゴーレムによって町は半壊してしまったのだよ。あそこにあった貴重な本たちは、今はこの図書館にしかあるまい。王が書き記した最期の言葉を知りたいか?」
「その話は今度聞くよ。それより、記憶力の良いお前たちに聞きたいことがあるんだ」
「なんだね?」
 褒められた魔物が、機嫌よく聞き返す。
「俺がいつからここにいるか覚えているか?」
 ウォレスの質問に魔物たちは一瞬固まり、次にうんざりした表情に変わった。耳にタコが出来たと言わんばかりに、耳があるらしい位置に手をくしゃりとやって、大仰に頭をふる魔物までいる。
「またですか館長さん。最近よく仲間を捕まえて尋問しているらしいじゃないですか」
 詩集集めの魔物が言った。
「人聞きが悪いな。こっちはただ質問しているだけだ」
「我々が気を悪くしているのだから、尋問ですよ」
「答えられないのか?」
 挑発するように問えば、魔物は苛立ったように言い返してきた。
「あなたはずっと前からここにいました。ずっと前は、ずっと前なんです。どんな想像をしているか知らないが、いいですか、夢を見るのは詩人であって館長さんの役目じゃない。あなたの仕事はこの図書館を管理し、正常に動かすことです。さあ」
 魔物が指示すると、他の魔物が数冊の本をウォレスに押し付けてきた。仕方なく受け取る。羊皮紙とインクのにおいが鼻についた。
「それじゃあ館長さん、今日中に目録作っておいてくださいよ。きっとですよ」
 それだけ言うと魔物たちは散り散りに本の隙間へ入り込み、やがてその気配もなくなった。
 広い館内で、ウォレスは完全に独りぼっちになった。耳をつんざくような静寂が、辺りを包む。惨めな気持ちになった。
 惨めな気持ちのまま、歩き出した。書斎に向かいながら、考える。
 ずっとここで生活していたのかもしれないし、ある日突然、この場所に連れてこられたのかもしれない。始まりはどうであれ、ウォレスはいつからこの図書館で、しかも館長などという立場でここにいたのか覚えていない。
 しかし、初めのうちは違和感などなかった。当たり前だったというよりは、疑問として浮かび上がることがなかったのだ。それが最近なぜか、霧が晴れて徐々に視界が広がっていくように、ウォレスの思考が広がった。思考が広がると、あまりにも自分の中がからっぽだったことに気付く。偏った、しかし膨大な知識はあっても、自分自身についての記憶がないのだ。
 いつからここにいて、なぜ己がここに存在するのか、ウォレスは知らなかった。記憶を辿っても、昔のことは思い出せない。その場所はまだ霧が晴れきっておらず、霞がかったようにぼやけてしまうのだ。
 ウォレスが思ったままを魔物たちに言うと、彼らは決まって、人間とはそういうものだよと言った。自分の居場所が、時々自分の居場所ではないように感じるものだ、と。
 そんなものだろうか、ウォレスは思った。
 だが、納得しようとしても、魔物たちの答えはウォレスの欲していたものとは違った。自分の居場所や存在意義など、本当のところ、どうでもよかったのだ。そもそも、この身が人間かどうかもわからないではないか。記憶がないということは、家族のことだって思い出せないということなのだから。もし両親など存在せず、どこからともなく生まれたのだとしたら、それはもう人間ではなく魔物だ。それでも、この図書館と共に生まれ、そして図書館のために存在しているとしたら、構わない。
 ただ、ぽっかりと空いた心の穴を持て余した。
 図書館の館長として必要な知識ではなく、自身の過去やその記憶、自身のための知識、言葉が欲しかった。他人と笑いあった記憶も、優しくしてもらったことも、誰かのために必死になったこともない。
 ウォレスがウォレスとしてここに居ることを、果たしてどれだけの人間が知っているのだろうか。
 つまり、寂しかったのだ。
 この広大な図書館に、人間はウォレスとリィリしかいない。しかし、リィリはウォレスを絶対的な存在としていて、一定以上の距離を保とうとする。そうかといって、魔物たちは、話し相手にはなってくれるものの、仲間には入れてくれなかった。彼らには彼らの世界があった。他にあるものと言えば、目が眩むような数の本だけ。ウォレスは苦々しく本を一瞥した。
 こんなことなら、疑問など持たなければよかった。なぜ違和感を覚えてしまったのだろうか。疑問を疑問と思わぬまま、人形のように生活していればよかったのに。
 孤独だった。友達が欲しかった。想い、想われる存在が。友達がいれば、居場所も存在意義も、そのうち勝手に付いてくるような気さえしたのだった。

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