*
 
 螺旋階段を、ゆっくりと上る。
 目録を作り終わった今、時間は腐ってしまいそうなほどあった。
 図書館に点在する塔。その内のひとつを、ウォレスは上っていた。塔はどっしりとした円柱で、チェスでいうルークのような形をしていた。中は壁に沿って階段が円を描き、所々空いた小窓から、光が差し込んでいる。
 リィリや魔物に会いたくなくて。または、大量の本が見たくなくて。最終的には結局、なんとなくで、階段を上っていた。歩くことは嫌いではなかった。
 ほどなくして、天辺に辿り着く。屋上まで出るには、端に掛けられた縄梯子を上らなければならない。ひとまずウォレスはここまでで満足することにした。
「…………今日はいい天気だな」
 最近は日も長くなった。
 一際大きな窓から、冷たい風が入ってきた。ウォレスは窓から身を乗り出す。
 最果ての図書館は、恐らく世界で一番大きな図書館だ。
 その広さは、小さな町とも呼べそうなほど。木や煉瓦、石灰や色硝子など数多ある材料を全て使ったような、大小様々な建物がくっつき合って出来ていた。所々に小道や小川、中庭なんかも見える。それらはまるで世界中の名立たる建築家を集めて、好き勝手に町を作らせたような外見だったが、なぜだか統一感はあった。景観は悪くない。これで人が沢山いたらさらに申し分ないのだがと、ウォレスは思う。
 図書館のくせに、来館者はなかった。仕方がない、ここは世界の果てなのだ。図書館の向こう側は、青みがかった針葉樹の大群が見えて、さらにその向こうでは、緑と空との境界線がうやむやになっていた。あとは、何もない。
 ウォレスが普段住んでいるのは、砂色をした石造りの城で、図書館の中心に聳え立っているが、この塔からではこうした景色は半分も見渡せない。最上階は、階段を上るとすぐに壁に遮られていて、その中心には、焦げ茶色の小さな扉があった。確かこの場所は屋根裏部屋で、二度と階下に降ろすこともないであろうガラクタたちが仕舞われている場所だ。入ったことはないような気がしたが、やはり知識として部屋を把握していた。
「戻るか」
 特に興味もない。ウォレスが下りようとした、その時。
 歌が聞こえた気がした。はっとして、立ち止まる。
 確かに聞こえる。どうやら、扉の向こうからだ。
 優しい声だった。旋律はあるにはあるが、音はぽつりぽつりと途切れ、鼻歌のような、子守唄のような柔らかい歌い方だった。心地の良い声だ。しかし、こんな歌を歌う人間は、この図書館にはいないはずだ。魔物でもないだろう。好奇心が、ウォレスの中に生まれた。
 慎重に扉を開けてみる。案の定、中は木箱やら古臭い机やらが色褪せた絨毯の上に散乱していた。上方にある窓から、筋になった光が床や木箱に落ちている。
 埃っぽくて薄暗かったが、秘密基地のようにも思えて、居心地は悪くない。
 部屋は丸まっていて、丁度扇子を開いたような形をしていた。突き当たりまで行くと、浅緋色の布が掛けられた、板のようなものが壁に立て掛けられていた。ウォレスの背丈よりもまだ大きい。
「絵画か何かか?」
 どんなものかと思い、布をばさりと落とした。
 それは、巨大な鏡だった。
 薄暗い部屋を映し、その周りは飾り気のない青銅で縁どられている。その鏡の中心には、少しだけ驚いたような顔をした、ウォレスが映っていた。
 短めの黒髪に、申し訳程度の吊り目。まだ大人には成りきれていないが、かといってあどけなさが残っているわけでもない。リィリほどではないが不健康な肌の色と、筋肉の追いつかない、ひょろりとした身体。比べる対象が異性であるリィリしかいないのだから、自身の顔については、特徴があるかはわからなかった。そんなに特記すべき部分はないと、ウォレス自身は思っている。ずっと眺めていたいものではない。自分自身に笑いかけてみても仕方がないのだ。また、長らく笑った記憶もなかった。
 鏡自体も大きさ以外はありふれたもので、高価なものではあるのだろうが、それ以上興味は湧かない。他に気になるものはないし、いつの間にか歌も止んでしまっていた。周囲を見まわしてみるが、隠れられそうな場所はない。
 やはりあの声は、気のせいだったのだろうか。
 無造作に投げた布を拾い上げて、適当に掛けなおそうと鏡に向き直る。
「え?」
「え?」
 そこに自身の姿はなく、一人の少女が、恐らく今のウォレスと同じような呆けた顔をして見つめ返していた。
「え?」
 ウォレスがもう一度言った。途端、
「え、え、なんで、え、あなた誰!?」
 目の前の少女が、明らかにウォレスとは違う動きをして慌てだした。まるで近くで会話しているがごとく、その声は聞こえた。
「え、あ、え」
 言葉が出てこないウォレスに、少女は困ったように眉を下げた。
「あ、えーっと、私の声、聞こえてないのかな……それとも、言葉が通じないのかしら?」
「き、聞こえてるし、通じてるけど……」
 口から声を発したことで、ほんの少し心にゆとりが出来たウォレスは、急いで思考を巡らす。
 先ほどまでは、確かに目の前の板は鏡だったのだ。しかし今はどうだろう、鏡の中には少女がいる。
歳は、十六、七くらいだろうか。ウォレスより少し若そうに見えた。いかにも町娘といった格好で、長い真紅の髪は二つに編み込みこまれ、白い花が耳元を飾っている。猫のような目は溌剌としていて、今は驚きで大きく見開かれていた。頬や手が若干埃で汚れているが、少女の持つ角灯に照らし出された肌は健康的な白さで、手足は小鹿のように繊細ですらりとしている。それなりの格好をしていれば、どこかの令嬢と言われても納得しそうな娘だった。 
 少女の背後は、薄暗くてよく見えなかったが、倉庫のようだった。だが、明らかにウォレスがいる部屋とは異なっている。じつは鏡の後ろに部屋が続いているのかとも思ったが、鏡の後ろはどう見ても壁である。そもそもこの図書館に、こんな少女はいないはずだ。
 結局わかったのはそれくらいで、突然の出来事に、ウォレスの思考は追いつかない。それは少女も同じなようだった。
 しかし、ウォレスはあることに思い当たった。
「はっ、まさか、あいつらの仕業か!?」
 あいつらとは、魔物たちのことだ。突然本から飛び出してきたり夜中に石像を動かしてみたりするだけでは飽きたらず、退屈に託けて、こんな手の込んだ悪戯をしてきたのか。
 そう思うと鏡の中の少女が急に憎らしくなって、思い切り睨み付けた。
 少女は短く悲鳴をあげて、一歩後ろに下がった。と同時につまずいて、後ろに引っくり返って、もう一度悲鳴をあげた。
「おい、大丈夫か……」
「あああああなたは、この原因がわかるの? というか、あなたは誰? 鏡の中の妖精さん?」
「違うっ…………って、鏡の中?」
 怯えている割にはそれ以上逃げようとせず、立ち上がった少女は力強く頷く。
「え、ええ。あなたは鏡の中に見えているわ」
「俺にもあんたが鏡の中にいるように見えるけどな」
「ええっ、私、じつはもう鏡の中に閉じ込められちゃったの!?」
 少女は顔を青くして、両頬を両手で挟んだ。
「まさか」
 人が慌てているのを見ると、逆に冷静になるものらしかった。そして、先ほど聞こえた歌声が、少女のものだったことにも気が付く。
 だいぶ落ち着いたウォレスは、少し考えて、
「とりあえず、状況を整理するために、自己紹介をしよう」
 そう言った。
 近くにあった木箱に、持ったままだった浅緋色の布を掛けて、その上に腰を下ろした。ぎしりと軋んだ。少女は立ったままだ。
「う、うん。あ、確認なんだけど、あなたは鏡の中に住む魔人や、妖精じゃないよね。名前を教えた途端に、鏡の中に取り込まれちゃうとか、そんなことないよね?」
 この少女は疑り深いが、若干ぬけているらしい。そもそも仮にウォレスが魔人や妖精だとして、さらに目の前の少女を鏡の中に引きずり込もうとしていたとして、はいそうです私は魔人ですと返事をする馬鹿がいると思っているのだろうか。
 しかしその人間臭さが、ウォレスにはくすぐったかった。
「じゃあ俺から自己紹介すれば問題ないだろ。俺はウォレス。ただのウォレスだ。最果ての図書館で、館長をしている」
 少女は予想していなかったのだろう。これ以上開かないのではないかと思うほど、目を見開いた。しかしその瞳が、密かに好奇心に揺れたのを、ウォレスは見逃さなかった。
「最果ての図書館って、あの、お伽噺に出てくる?」
「多分そう」
「世界の全てが記してあると言われる、あの?」
「全てかは知らないけど、確かに書いてありそうなくらい本はあるな」
「あなたの後ろに、本らしきものは見えないけど?」
「ここは倉庫だ。その中でたまたまこの鏡を見付けて、そしたらあんたが見えたんだ」
「本当に?」
 しつこく確認してくる少女に、ウォレスは肩を竦めた。
「嘘を吐いてもしょうがないだろ。本のある部屋まで鏡を持って行ってもいいけど、重そうだし階段を下らなきゃいけないし、出来れば勘弁してほしい。途中で落として割りそうだ」
 少女はしばらくウォレスの目をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと息を吐き出した。
「私、最果ての図書館って、てっきり空想上のものだと思ってたわ」
「あんたがどこに住んでいる人間かは知らないけど、このパライナで生きているなら、多分存在していると思う」
「…………私はルチア。ルチア・ホワイトよ。フレイラの町に住んでるの」
 意を決したのか、少女はそっと名乗った。
「フレイラ……?」
「はじまりの町って言った方が、わかりやすいかも」
「はじまりの、町……」
「知らないの? 最果ての図書館の館長っていうから、博識なのかと思ったけど」
 ルチアは、不思議そうな顔をした。
「本はあんまり好きじゃないんだ……でも多分、名前は知ってる」
 ウォレスは憮然と答えた。正確に言えば本が嫌いなわけではなく、図書館が嫌いなわけだが。ただ、整然と羅列する背表紙にはうんざりしていた。
 はじまりの町。魔物たちの話中に何度か出てきたような気もする。目を閉じて、パライナの地図を思い浮かべてみる。確かディネマ大陸の南、ルヴァ地方の南東に位置する、歴史ある小さな町だ。図書館の中とは違い、今は暖かな風が吹いているだろう。
 最果ての図書館とは、対極にあると言っていい。
 なんでそんな場所とこの場所が繋がったのだろうか。ウォレスが首を捻る隣で、少女は薄ら笑いを浮かべて、コホンとひとつ咳をした。
「ちょっと親近感が湧いたわ……いいよ、教えてあげる。なんではじまりの町かと言うとね、まず、この町は小さいけど流通の便がよくて、比較的物価が安いの。そして周辺に、凶暴な魔物があまり出ない。だから強力で熟練の技が必要な武器より、素人にも扱いやすくて安価な武器や防具、魔法道具の類が好まれ作られる。つまり、そういった武器でも倒せる魔物しかいないのよ。そんなわけで、駆け出しの騎士様や冒険者、旅人や賞金稼ぎたちが、必ず初期に立ち寄る町と言われているの」
 物知り顔で披露するルチアの話を止めるのも面倒くさいので、ウォレスは大人しく聞いて、
「つまり、彼らにとってフレイラは、まさにはじまりの町なわけだ」
 最後に簡潔にまとめた。
「その通り。でもね、他にも謂れがあるのよ。『光の勇者』の物語くらいは知っているでしょ?」
「それくらいなら……勇者が魔王を倒す物語だろ?」
 むかしむかし、で始まる典型的な昔話だ。魔王に支配された世界を、光る剣を持った青年が救う物語だ。目録を作る際、あまりにも度々魔物たちが仕入れてくるので、気になってページを捲ったことがある。
「すごく要約すればそんな感じね。その光の勇者様を筆頭に、多くの英雄がこの町の出身なの」
 誇らしげに、ルチアが胸を張った。なるほど、それではじまりの町か。どうりで魔物たちの話によく出てくるはずだ。ウォレスは納得した。
 そして自己紹介も終わった。
「つまり、なんらかの影響で、最果ての図書館と、はじまりの町が鏡越しに繋がったわけだ」
「そうみたいね」
「なんでそんな所にある鏡と、この鏡が繋がったんだ……」
 ウォレスは鏡を見た。確かについさっきまでは、何の変哲もない鏡だった。
「こんなことは初めて?」
「当たり前だ。日常茶飯事だったら、あんなに驚くわけないだろ」
「それもそうね」
 ルチアが素直に頷いた。
「それより、そっちこそ、何か変わったことはしてないのか?」
 名前と、フレイラに住んでいるのはわかったが、まだ情報が少なすぎた。案外、この少女がなにかしでかしたのかもしれない。
「私はあなたみたいに、すごい肩書を持っていないの」
「普段は何をしているんだ?」
「魔法石屋で働いてる」
「ということは、魔女か?」
 ウォレスはルチアをまじまじと見た。
 魔法は、生まれつき魔力を持ったものしか使えない。しかも、魔力の種類も人によって様々だ。魔力を持たない者は、魔法石と呼ばれる魔女が魔力を込めて作った特殊な石を使用することでしか、魔法を扱うことが出来ない。そのため町に暮らす魔女の大部分が、魔法石屋を生業にしていた。つまり彼女も魔女ということになる。
 言わんとすることがわかったのだろう、ルチアが困り顔で、否定する。
「確かに少しは魔力を持っているけど、住み込みで働いているだけの魔女見習いなの。こんなすごいことが出来そうな魔法なんて、習得してないわ」
 鏡からおかしな魔力は感じない。ルチアの言った通りのようだ。
「あんたの後ろも倉庫みたいだけど、何をしていたんだ?」
 ウォレスが尋ねると、ルチアはバツの悪そうな顔をした。
 しばらく、あーだとかうーだとか小声で唸っていたが、
「誰にも言わない?」
「言う相手がいない」
「友達いないの?」
 今度はウォレスが唸った。ルチアにとっては何気ない会話の延長線上でも、彼にとっては心を抉るような質問だった。痛んだ心を守るように、背中が曲がる。
「誰もいないんだ」
「図書館に?」
「うん……、あー……、ひとりいるけど、友人じゃあ、ないな」
 もちろん、リィリのことである。
「ふーん?」
 それは寂しいね、とルチアが呟いた。
 初めての同情に、ウォレスはどう答えていいかわからない。
「それより、誰にも言わないから、さっきの話の続きを……」
 ルチアは思い出したように頷いて、目だけで周囲を窺った。どこか緊迫した様子に、知らずウォレスの身にも力が入る。
「逃げてるの」
 そう小声で言った。
「えっ、追われてるのか!?」
 ルチアが神妙な面持ちで頷いた。それならばこんな場所で油を売っていていいのか。
 突然の切迫した空気に、ウォレスは慌てた。
「誰に追われているんだ?」
「…………師匠に」
「……師匠?」
 魔女見習いのルチアが師匠と呼ぶのだから、恐らく魔法石屋の店主のことだろう。しかしなぜ己の師匠から逃げているのか。
 しばらく沈黙が続いたが、ルチアのため息がそれに終止符を打った。
「ばれたの……薬草を摘みに、近くの森に行ってたんだけどね……お昼寝してさぼってたのが、ばれたの。あそこなら絶対にばれないと思ったのに。きっと近所の子供たちだわ、告げ口したの。あの子たち、危ないって言ってるのに、また森で遊んでたのよ」
 一気に緊張感がなくなった。
 しかもルチアの言葉から、なんとなく常習犯であることが伝わった。
「怒られて来いよ……」
 白けた雰囲気を察したのだろう、ルチアは目を逸らした。
「い、行くよ? 師匠の機嫌が……もう少しよくなった、ら……」
「待てば待つほど、機嫌は悪くなるんじゃないのか?」
 少女の目が泳ぐ。
「う……だってうちの師匠怖いのよ? 容赦ないし。しかも宮廷魔女としても通用するくらいの魔力を持っているの。そのせいか、立っているだけでもやたら威圧感あるのよね」
「どうしたって逃れられないじゃないか」
「う……そ、そういえば、この鏡って、通り抜けられるのかしら?」
 話題を逸らすように、しかし口に出したことで本当の疑問になったようで、ルチアは恐る恐る鏡に顔を近づけた。だが、触ることはしない。
「まさか、鏡は鏡だろ?」
 そう言いながら、ウォレスは鏡に触れてみた。少しだけ期待しながら。
「もし通り抜けられるようなら、少し匿ってもらおうかと思ったけど」
「無理みたいだな」
 伸ばした指先は、冷たい壁に阻まれ、それ以上先に進もうとはしなかった。
「なんだか鏡越しっていうより、硝子越しみたい」
 ウォレスが触ったのを見て安心したのか、ルチアも鏡に触れた。ウォレスからは、鏡に引っ付けたルチアの指の腹が見えた。
 その指先に合わせるように、ウォレスももう一度鏡に触れてみたが、当然ながら感触はただの鏡だ。
「割るのは止めておいた方がよさそうだな」
「そうだね。原因はわからないけど、とにかく面白いね」
 その時。好奇心でいっぱいだったルチアの顔が、凍りつく。何事かと思ったが、遠くの方で彼女の名を呼ぶ声が、ウォレスの耳にも入った。
「ルチアー! この怠け者! どこにいるんだい!」
 どうやら声の主は怒っている。そしてルチアの表情は徐々に諦めたものに変わっていった。
「あれが噂の師匠か?」
「……うん」
「かなりご立腹みたいだぞ?」
「…………」
 ルチアは答えなかったが、やがてしぶしぶ頷いた。
 決心が着いたのか、背筋を伸ばして、しかし思い出したように鏡に触れた。
「これってずっと繋がったままなのかな? また会ってくれる?」
 その言葉に、ウォレスの胸は高鳴った。
 鏡越しだとしても、友人が出来るかもしれない。渇望していた居場所や存在意義が、手に入るかもしれない。高鳴る鼓動が、ルチアに聞こえてしまわないか心配になりながら、何気なく返事をする。
「ああ、そうだな。原因も気になるしな。次はいつここに来れるんだ?」
「明日も来れるよ。罰として工房の整理をさせられるだろうから、夕方になると思うけど。残念ながら終わるまで工房に鍵かけられちゃうから、抜け出せないんだよね。頑張って終わらせるから、待ってて」
「抜け出すから鍵をかけられるんだろ」
「一度だけだよ。仲良しの馬が仔馬を産んだって聞いたら、見に行きたくなるでしょ?」
 ウォレスは呆れながら、塔の窓を見る。まだ陽は高い。この現象が、時間経過によるものなら、夕方では会えないかもしれない。
「この時間じゃないと、鏡のままかもしれない」
「じゃあこうしましょう、もし明日会えなかったら、あさってはこの時間に来てみる。それでいいかしら?」
「いいよ、こっちはだいたい暇なんだ」
 もしかしたらもう二度と会えなくなるかもしれない。
 鏡がこうなった原因がわからないからだ。今回だけかもしれない。そうだとしたら、どれほど悲しくなるのか。知らなければそれでもよかった。知ってしまえば、初めて甘味を与えられた子供のように、何度も欲しくなってしまうに違いない。
 そう思う反面、ウォレスはなんとなく大丈夫だろうとも思っていた。ただの期待かもしれなかったが、少なくともこれで終わりのような気がしない。普通に遊んで、また明日と手を振る子供のような心境だった。明日急に会えなくなるなど、万が一にも考えたりしない。
 そしてそれは、ルチアも同じらしい。不安の色は見えない。彼女の場合は、もう会えなくても構わないと思っているだけかもしれなかったが。
「それじゃあ、私、もう行くね」
「じゃあ、しっかり怒られて来なさい」
「はいはい、わかりました。明日、ちゃんと慰めてね?」
 悪戯っ子のように、ルチアが笑った。
「会えたらな」
「会えるよ!」
 自信満々なルチアに、ウォレスはぎこちなく口角を上げてみたのだった。

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