*

 男が目を覚ましたようだ。
 翌日の昼頃、そう魔物から聞かされると、ウォレスは客室に向かった。
 図書館に客室があるのもおかしな話だ。昔は誰か来ていたのだろうか。やはり自分は、この図書館の始まりを知らない。それとも、忘れてしまっているだけなのだろうか。
 いつもながらもやもやしだした思考を振り払って、ドアを叩いた。
「はい」
 こじんまりとした、だが清潔な部屋。寝具はリィリによって整えられ、机や棚なども綺麗に水拭きされていた。
「本当に助かりました。あなたは命の恩人です」
 男はベッドから上半身だけ起こし、そばにあった椅子に腰かけたウォレスに礼を言った。
「いや、別に……」
 見知らぬ人間に内心怯えつつ、しかし涼しい顔を装ってウォレスが答える。
 男は小奇麗になり、昨日とは見違えるほどの好青年になっていた。年齢もウォレスが思っていたより若そうで、二十代後半といったところだろうか。顔にはまだ疲労が残っているが、全体的に彫りが深く柔和な目も少し落ち窪んでいる。整えられた髭に覆われた口元は、優男よろしく微笑みを浮かべていた。が、ウォレスにはどうもその微笑みは、本物ではないような気がした。例えるなら、仮面を剥ごうとしない道化だろうか。ただ、嫌な印象は受けなかった。
「さて、こんな形で申し訳ないのですが、少しお話ししてもいいでしょうか?」
 男は微かによろけながらベッドから降りると、もうひとつの椅子に腰かけた。
「かまわない」
 ウォレスも、聞く態勢を整える。
 男はまた礼を言って、
「……ここは、最果ての図書館でしょうか?」
 懇願するような聞き方だった。
 頷いてみせると、男は安堵したように息を吐き出した。
 カタカタ。扉の外で興味津々に魔物たちがうろついているのが、気配でわかった。わかったが、別に危害を加えるわけではないので放っておくことにした。
 男に尋ねる。
「あんたは、迷い込んだわけではなく、ここを目指して旅をしてきたんだな?」
 今度は男が頷いた。
「はい。私は自分の意志で、ここまで来ました。失礼ですが、あなたは?」
「俺はこの図書館の館長、ウォレスだ。あんたは?」
 なぜだか、男は少し驚いた様子だった。しかしすぐにその表情はひっこめられた。
「名乗りもせず、申し訳ございません。私は、アラン。アラン・フロックハートです」
「アランか。アランは、何しにこんなところまで来たんだ?」
 細身ながらほどよく筋肉も付き、腰には護身用のナイフを差し、恐らく他にも武器を隠し持っていそうだ。決して弱くはなさそうだったが、どんな道も越えて行けるほどの屈強な戦士にも見えない。魔力も感じなかった。
 普通の人間は、ここに来ようともしない。ならば、何かよほどの事情があるに違いない。興味が湧いた。
「私は…………」
「私は?」
「私は、商売のために、ここに来ました」
「は?」
 冷静を装うのも忘れて、ウォレスは間抜け面を晒した。すると聞き取れなかったと思ったのか、今度は先ほどよりも大きな声で、アランが言い直した。
「商売です。このパライナのどこよりも不思議な場所なら、さぞ他で高く売れるようなお宝が眠っていると思うのです。それをぜひ売って頂きたいと思い、遠路遥々やって参りました!」
「へ、へえ。そんな理由で、よく来れたな」
 てっきり、原因不明の病気で床に伏した母親がいて、その治療法が書かれた本を探しに来たとか、日照りによって作物が壊滅状態で、雨乞いの儀式が書いてある本を探しに来たとか、ウォレスとしてはもっと切羽詰ったものを想像していたのだ。
 最寄りの村でも、数日で辿り着けるような場所ではないのだ。そもそも、普通に歩いて辿り着ける場所ではない。さらに、その最寄りの村や町も、通常余所者を受け入れない独特の文化が栄えるような場所だ。アランを見ても、着ている服や小物は良い物のようであったし、社交的な性格からして、王都アネットか、それに類似する栄えた国の人間のように思われた。
 しかしアランは首を振った。まるでわかっていないと言わんばかりだ。
「私にとっては、安い理由ではありません。私は商人です。世界一の商人を目指しています。だからこれは、命を懸けられるほどのことなのです。何か良い物があれば高値で買い取らせて頂きますし、貨幣がいらないなら、物々交換でもかまいません。食べ物の類はこの旅で尽きかけているのでありませんが、都から持って来た珍しい品でしたら、快くお譲りいたします」
 さりげなく商談に持ち込まれて、ウォレスは軽く混乱した。アランは本当に、商売をしに図書館へやって来たらしい。
「いや、ここは図書館なんだ。あんたが思うような珍しい物なんてないぞ」
 必死に冷静さを取り繕う。
「こんなに沢山の本があるじゃないですか」
 アランは引き下がらなかった。
「図書館の本を貸すことは出来ても、売ることは出来ない。そしてあんたに貸すと、そのまま持っていって返却してくれなさそうだから、お貸しすることも出来ない」
 返却期限を過ぎた本は、魔物たちが取り返しに行くことになっているが、どう取り返すつもりなのか考えると、期限は過ぎない方がいいだろう。
「重複したものや、古くて処分したいものは?」
「残念ながら、この図書館に、同じ本を二冊置くことはない。置く余裕もないし、必要もないからな」
 ウォレスはきっぱりと断った。
「そうですか……」
 世界一を目指すという商人は、残念そうに項垂れてしまった。微笑みも、思わず影を潜める。相当な苦労をしてここまで来たのだから、当然だろう。その執念と熱意を思うと、少々かわいそうである。しかし、
「人間諦めも肝心ですからね。無理強いはしません。しかし何か売りたくなりましたら、ぜひ私に言ってくださいね。私ならこちらまで引き取りに伺いますから」
 アランが次に顔を上げた時には、また元通りの柔和な笑顔に戻っていた。
「あ、ああ。それくらいなら……」
「ありがとうございます!」
 恐ろしいほど前向きな人間のようだった。
「すごいな、売り買いに、そこまでの情熱を燃やせるのか」
 ウォレスは思わずそう言った。
 アランは照れたように笑う。
「仲間にも笑われます。命まで懸けて、人が滅多に入らない場所で商売しようとするなんておかしいと。ですが正直な話、私は旅が好きなのです」
「旅?」
「はい。もちろん、旅の景色を楽しむわけじゃありません。いえ、それも醍醐味ですが、私は根っからの商売人です。人が踏み入らない場所や、魔物がうじゃうじゃいるような場所でも、意外と面白い商売は出来ます。取引相手は、主に冒険者や賞金稼ぎたちです。物資が手に入らない場所に私がいると、彼らは必ず私に感謝しますよ。薬とか、魔法石とか、町の中じゃ当たり前に扱っているものでもです。吊り橋効果というのでしょうか。二度と会わないかもしれないのに、そこにはなにか絆というか、同志のような結束力があります。そしてまた会うことがあれば、彼らは絶対に私を選んでくれるのです」
 先ほどまで気絶していた人間とは思えないほど、滑脱と喋る。
 やはりこんな辺鄙な場所まで来るような人間は、変わった人間だ。ウォレスは納得した。しかし、ウォレスには放浪草のような彼がとても眩しく感じた。
 アランにとってはウォレスが別世界の人間のように映るかもしれないが、ウォレスにとっては、彼の方こそ別世界の人間だった。遠くのものを見るような目付きで、アランを見る。
「ここまで来るのに、大型の魔物がうじゃうじゃいただろ。どうやって抜けた」
「東の国で仕入れた、隠れ蓑を使いました。それを被ると魔物に気付かれなくなるんです。途中で半分ほど燃やされましたけど」
「遺跡があると思ったが、そこの封印は?」
「知り合いの考古学者から辞書を買って、一週間最寄りの、比較的友好な村から通って、一通り仕掛けを弄ってみました。運がよかったのですね。門番の巨大鳥が出て来た時は、さすがにもう駄目だと思いましたけど、通りすがりの賢者に助けてもらいましたよ。無謀過ぎるとお叱りを受けましたが」
 どうやらかなりの強運の持ち主のようだ。そして存外、考えなしのようである。
 ウォレスは少し考えて、
「やっぱり、俺と取引しよう」
 そう言った。
「え?」
 意外そうに、しかし男の目が、期待するように光る。
「あんた、さっき食料が尽きかけていると言ったな。このままじゃ帰れないだろ」
「は、はい」
「こっちが提供するのは、あんたとお供の水と食料。あとは、無事に里まで帰れるように、結界を張ってやる。俺の結界なら、魔物たちもおいそれと手を出してきたりしない」
 ウォレスの張る物は、教会で張ってくれる魔物除けの聖域とは比べられないほど、持続時間も効果も強力なものだ。例えまた門番の巨大鳥に出会ってしまったとしても、恐らく傷一つ付けられまい。
「ほうほう」
 男は値踏みするように顎を手で撫でたが、その目は楽しそうに笑っている。
「それに、売ることは出来ないけれど、この図書館の本を好きなだけ読んでいってもいい。ただし、自分の力で行けるところまでだ」
「それは、この図書館には、簡単に読めないような本もあるということですか?」
「まあな」
 ウォレスは言葉を濁したが、当然のごとく存在した。読むべき者しか読めない本や、禁書もある。本が自ら読む人間を選ぶことだってある。売れば一生遊んで暮らせるような本も、値が付けられないような本も、数多くある。売れないが。
「魔物たちには、あんたに手を出さないように言っておく」
「ほう。中々いいお話のようですな。旅の記念に、図書館を探索するのは楽しそうですし、食料はこちらからお願いしようと思っていました。結界は、本当にありがたい。では、こちらもぜひあなたのご要望にお応えしたい。何がお望みでしょうか。申し訳ないのですが、最果ての図書館の館長であるあなたが、何を欲しがるのか、私には検討も付かないのです」
 言いながら、男はそばにあった鞄から、次々と品物を取り出した。中級程度の魔法石や傷薬といった旅の必需品から、カードやチェスなどの娯楽品、果ては色眼鏡や万華鏡など都会でしか手に入らないような物まである。運搬費まで含めるならば、どれも高価なものばかりだ。
 物珍しさに、ウォレスは感心したような声を上げる。
「どうですか? やはり百聞は一見に如かず、です。実物は、文字より面白いでしょう。…………いや、これは失礼」
「いや、確かに面白い。見たことない物ばかりだ……こっちのは?」
「さすが、お目が高いですね。これは人魚の涙の髪飾り。イラの遺跡に住み着いた人魚から分けてもらいました。これを意中の女性に渡せばいちころですね。こっちは小人が編んだ腹巻です。彼らは器用ですから、付け心地は保証しますよ」
 さすが、世界中を旅しているだけはある。本物かは知らないが。
「うーん……」
 しかし、ウォレスは困ってしまった。どれもこれも綺麗で面白いものばかりだが、どれもこれも、自分には似合わないような気がしたのだ。つまり、欲しい物がなかったのだ。
 アランは満面の笑みだ。
「ゆっくり決めてください」
「あ、ああ」
 ウォレスとしては正直、食料や結界などただであげてもよかったのだが、それではアランの気は済まないのだろう。強いて言うなら馬車代わりに小馬が欲しいところだが、さすがに相棒を盗ることはしたくなかった。アランも手放しはしないだろう。
 適当な消耗品でも貰おうか、そう考えていると、ノックの音がした。先ほどまでいたはずの、魔物たちの気配が消えている。つまり、
「リィリか。入りなさい」
「失礼します、食事をお持ちしました」
「ああ、そういえばまだだったな。ありがとう」
 突然現れた美しい少女に、アランが息を呑むのがわかった。リィリから目が離せないようだ。しかし本人は全くアランのことなど眼中にないようで、台に乗せた皿を机に乗せようとした。
「アラン、すまないが、机の上を一度片付けてもらってもいいか?」
「え、あ、はい、ただ今!」
 リィリに場所を譲るように、商品たちを乱雑にかき集めていく。傷がつかないか、ウォレスの方が心配になった。
 湯気の立つ出来立てのバケットに、バターと林檎のジャムが添えられている。それに今朝取れた卵と、ベーコンを一緒に焼いたもの。野菜を柔らかく煮込んだスープ。野菜は、農耕の指南書から生まれた魔物たちが趣味で作っている物だ。パライナの技術が上がり、後世に残すために本にすればするほど、彼らの腕も上がるため、ウォレスとしては今後も世界の発展を願うばかりだ。
 おまけに甘い香りのする、ココアが食欲をそそった。
 アランの腹が、ぐううと鳴った。
「す、すみません。まともな食事は久しぶりで……お嬢さん、ありがとうございます」
「いえ」
 リィリが必要最低限の文字数で否定する。
「これは取引内容には入っていない。遠慮なく食べてくれ」
 ココアをすすりながら、ウォレスが言った。ミルクが多くておいしい。
「いただきます」
 恐縮しながらも手を伸ばし始めたアランを一瞥すると、リィリは一礼した。あとはウォレスがいいと言えば、すぐにでも部屋を出ていくだろう。
「そういえば、リィリは何か欲しい物があるか?」
 しかし、ウォレスはリィリを下げなかった。
「欲しいもの?」
 リィリが首を傾げる。
「ほら、万華鏡とか髪飾りとか」
 年頃の女の子が欲しがりそうな物も、いくつかありそうだった。ウォレスはこれといった物欲はなかったし、リィリが欲しがるなら、アランとの取引はそれにしようと考えたのだ。
「綺麗なお嬢さん、指輪なんかどうでしょう。町の娘たちの間で、流行っているようですよ」
 アランも元々垂れた目をさらに垂らして、加勢する。しかし、
「いいえ、興味ありません」
 何となく察しはついていたが、予想通り、リィリはあっさりと首を振った。
「遠慮しなくていいんだぞ?」
「リィリには必要ないものです、マスター」
 遠慮しているわけでもなさそうだ。いらないものを無理に与えてもしょうがない。下がってもいいと言おうとして、しかし、ウォレスはふと思い立った。
「鳥の様子はどうだ?」
 昨日助けることになった、怪我を負った鳥のことだ。後で怪我の具合と治療法を調べようと思っていたのだが、アランの件で珍しくやらなければならないことが多く、すっかり忘れていた。リィリはきちんと面倒を見ているのだろうか。
「はい。出血はありませんでしたので、毛布に包んで温めたら餌は食べるようになりました。ただ、羽が折れているようなので、当分飛べそうにはありません。リィリには医学の知識はありませんが、一生飛べないように見えます」
 淡々とした状況説明。
「そうか。引き止めて悪かった。鳥の所に戻ってやりなさい」
 リィリは頭を下げ、ワゴンを持って部屋を出て行った。
「いやあ、綺麗なお嬢さんですね。この世のものとは思えない」
 アランがリィリを絶賛している横で、ウォレスは考えていた。
「……アラン、色んなところを旅して商売しているということは、珍しい物も扱っているな?」
「はい、そうすれば他所で高く売れますから」
「じゃあその……」
 ウォレスが欲しい物を言うと、アランはなぜか少し驚いたような顔をした。だが、やはりすぐに笑顔になって、
「とっておきがありますよ」
 それから二人は食事をしながら細かい交渉をして、やがて取引が成立した。
 食後のお茶をのんびり飲んでいると、アランが少しだけ迷ったあとに、口を開いた。
「あなたはあの美しいお嬢さんと違って、人間らしいですね」
「え?」
「ここには、私以外にも来館者がありますか?」
「……ないな」
 ウォレスは素直に答えた。見栄を張ってもしょうがないのだ。
「最果ての図書館とは、どんなものかと思っていましたが、思っていたよりも人間らしい。図書館と言えば人間の作り出した本が収蔵されているのだから、納得出来ないこともないですけど。もっとこう厳格で静寂に支配された、人間を受け入れない場所かと。図書館の館長の話は、周辺の村々で色々な噂が流れていますし。でも、ここに来る人がいないなら、やっぱりただの噂ですね。あの辺は内向的で娯楽も少ないし、そういう噂が特に好まれるんでしょう」
 アランは考察するように、ゆっくりと言った。
「どんな噂を?」
 気になって尋ねる。
「どうでしたっけ、たしか……白髪の老婆とか、いや紳士だったかな、なんでも、人間ではないとか……まあ典型的な噂って感じですね」
 ぼんやりした言葉は、あまり参考になりそうもなかった。図書館の館長なのだから、初老の紳士とか、優しげな老婆とか、とにかくそういう雰囲気のある人物を想像したのだろう。ウォレスも自身が館長でなければ、そういう想像をしたかもしれない。
 しかし残念なことに、館長は他の誰でもなくウォレスだった。
「彼らの幻想を壊してもいけないだろうから、あんまりよそで俺の容貌を吹聴しないでくれよ」
 アランが軽く笑った。
「わかりましたよ」
「……俺がこの図書館に、そぐわないように見えるか?」
「いえ、そういうわけじゃないのですが、ご気分を悪くしたのなら謝ります。ただ、あなたはなんというか……不躾ですが、いつからこの図書館にいらしたのですか?」
 ウォレスはアランを見て、
「忘れた」
 それだけ言うと、立ち上がった。そんなこと、こっちが聞きたかった。
「商品を持っていかれないのですか?」
 アランが不思議そうに聞く。
「もらうさ。だけど、まだこっちの物資の準備が出来ていないからな。俺がこれをぶんどって、あんたに結界をかけてやらなかったらどうする?」
「これはこれは。私よりよっぽど商売のいろはを知っていらっしゃるようで」
 ゆるく笑うアランに軽く手を上げながら、ウォレスは部屋を後にした。

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