途端に、ルチアの表情が曇った。話題の選択を間違えたかもしれない。
「じつは、もう追えてないんだよね。勇者様たち、最近あちこち移動してるらしくて。ピートでも追いつけないみたいなの」
「最後に見たのはどこなんだ?」
「ザリア地方に入るところまでね」
「へえ、遠くまで行ったな」
ザリア地方とは、北にある大陸を差す。レインディアと呼ばれる巨大な雪国を中心に、極寒の地ながら栄えている町が多い。ついこの間フェルゼンの問題を解決したばかりだと思っていたが、気付けば月日が流れていたらしい。
「ただ魔王のところに行っても、簡単には倒せないでしょ? だから今はあちこち情報収集しているみたい。ほら、あの辺は巨大魔法が盛んだから」
「あちこちまわってるなら、足取りがつかめなくなっても仕方ないな」
「そうなの。私の魔力の痕跡を辿って探してくれてるんだけど、やっぱりだいぶ薄くなっちゃったのかな」
いつもならルチアにぴったりと寄り添うピートの姿が見えない。つまり今も、見えない勇者を探して、あちこち飛びまわっているのだろう。
「ピートを酷使するなよ。あんまり北まで来ると、帰れなくなるぞ」
恐らく雪などろくに見たこともないであろうルチアに、忠告する。
ルチアはウォレスを見て、つまらなそうに視線を外した。
「………………わかってる。でも、やっぱり気になるなあ。勇者様たち……」
まるで息子を戦地に旅立たせた母親のようだ。彼女は、心配性だった。
「便りがないのは元気な証拠なんだろ。ほら、手が止まってるぞ」
気遣うようにウォレスが言った。
ルチアは頷いて、また手元の魔法石をひとつ投げた。良品の籠だ。石はどの石にも当たらず、籠の中に落ちる。
それを見たルチアが苦々し気に下唇を突きだした。
「うーん。あんまりいい買い物じゃなかったみたい。最近こういうの、多いわ」
「そうみたいだな。全体的に濁ってる」
ウォレスが同意する。
「あー、水晶の森まで行けたら、自分で掘り出すのに!」
水晶の森は、フレイラからさらに南西に行った場所にある。森と言ってもあるのは洞窟の中だ。そこで、魔法石の元となる原石が掘り出されている。
「そんなこと言って、掘り出し方も知らないくせに」
「どうせ行けないもの。好き勝手言わせてもらうわ」
「なんだよそれ」
強引な言い分に、思わず吹き出す。それを見て、ルチアも表情を緩めた。
「……どこにも行けなくても、私たちはこうやってお喋り出来るから幸せ者だね」
アランが去って行った日に、ルチアとした会話を思い出す。
あれからウォレスは、外の世界にいる夢を度々見る。必ずいつも同じ場所だった。外の世界は知らないはずなのに、それらは鮮明にウォレスの目に焼き付いて離れないのだ。
柔らかな日の差し込む森。さりげなく咲く野花たち。かたわらでは、二匹の蝶が舞っている。見知らぬ場所だ。
外に出たウォレスは、いつのまにかそんな場所に立っていた。しばらくすると、背後から少女に名前を呼ばれる。恐らく少女なのだが、実際の所はわからなかった。振り返ろうとすると、目が覚めるのだ。
少しだけ、懐かしいような。
「大丈夫?」
現実に引き戻される。ルチアが鏡に顔を近づけ、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
ルチアが、もう一度繰り返す。
「大丈夫? なんだか、心ここにあらずって感じだったけど」
「ありがとう。大丈夫、少し考え事をしていただけだ」
「そうなの? それならいいけど」
どうせ本の挿絵や、壁に掛けられた絵などから着想を得て、憧れに夢を見ているだけだろう。ウォレスは、図書館の外にある世界など知らないのだから。
目の前の少女をこれ以上心配させないよう、ウォレスは笑みを作った。
異変は突然だった。
ドォォォォォンッ
ウォレスが日課の散歩をしていると、図書館中の魔物たちが急に騒ぎ出した。その数秒後、天地を揺るがすような轟音が響いて、すぐに静かになった。
「反対側か」
舌打ちして、しかしウォレスは図書館の南へと踵を返した。教会の様な天井の高い、しかし壁は全て本に埋まった巨大なホールを横切り、薄暗い廊下を進む。
そこで、数匹の魔物たちが、ウォレスの元へ弱々しく浮きながらやって来た。
「館長、遅いよー」
その内の一匹が、泣きべそをかきながらそう訴えた。
よく見ると、尻の部分は黒く焼け焦げ、腕が一本、鋭利な刃物で切られたようになくなっていた。他の魔物たちも多かれ少なかれ怪我を負った状態で、館長に何かを伝えようと口々に喋っている。非常事態のようだ。
「一斉に喋ってもわからないだろ、順番に話しなさい」
足を止めることなく、ウォレスは魔物たちを諫める。どちらにせよ魔物たちは自然治癒に任せるしかないので、怪我については放っておくことにした。人間に効く薬が、魔物に効くとは限らない。
「おっきな空飛ぶ魔物が、図書館の中に落ちたんだ」「しばらく様子をうかがっておったら、中から人間が二人出てきて」「侵入者だから私たち、戦闘態勢に入ったのだけど」「あいつらめちゃくちゃ強いんだ!」
要領を得ない魔物たちから、何とか重要そうな部分を抽出すると、大体こんな感じだった。そしてその話を聞くうちに、ウォレスは高揚感を覚えている自身に気付いた。
「まさかな……」
自身を落ち着けるためにそう呟きつつ、雪解け水のように鋭く涼しげな魔力と、空気を切り裂いてしまいそうなほどの気迫を、すぐ近くに感じた。早足だったウォレスが、現場に辿り着く頃には駆け足だったのは、仕方のないことだった。
それでも南門がある庭園に出るための扉を開ける時には、無理矢理気を静め、焦れるほどゆっくりと扉を開けた。しかしいくら予想していたとは言え、目の前に広がった光景は、十分にウォレスを驚かすものだった。
「魔法船か、初めて見たな」
林檎の木の間に捻じ込むようにして止まっていたのは、巨大な風船のような物体だった。どうやら浮力に関係した魔法石を媒介にして飛ぶ船らしく、全長は百二十フィート、高さも三十フィートほどあり、平均的な民家がすっぽり入るくらいの、船にしては小型のサイズだ。風船の下には、操縦室らしきものがついており、硝子窓が等間隔で並んでいる。
比較的最近、魔法船の設計図がこの図書館にも納められていたため、ウォレスも存在は知っていたが、見るのは初めてだった。
十中八九先ほどの衝撃は、この魔法船が着陸した時のものだろう。先端が大きく拉げていて、中の人間が心配になったが、ここの魔物たちと対等以上に遣り合ったというのだから、無事に決まっている。むしろ、薙ぎ倒された林檎の木の方が心配だった。
そこにはもう誰もいなかったので、ウォレスはさらに進んだ。
庭園の中の石畳を進み、本館入口に向かう。
数十人が一度に押し掛けても難なく入れそうなほど大きな扉が見えた時、ウォレスが探していた人物たちも見えた。しかし中に入る瞬間だったようで、すぐに見えなくなる。
「お前たちはそこにいるんだ、いいな?」
魔物たちに言い渡すと、彼らは大人しく庭園の草木に隠れた。これ以上戦闘に駆り出されなくて済んだと、ホッとしているかもしれない。
ウォレスが本館に足を踏み入れると、リィリが侵入者の前に立ちはだかっているのが見えた。リィリは無言で、調理用のナイフを構えたまま動かない。
相手の力量を窺っているのか、侵入者も動かなかった。
「どいてくれ」
侵入者の一人が、凛とした声で言い放つ。その声は広間中に響き渡り、有無を言わせない力強さがあったが、リィリは無言のまま微動だにしない。
「そこをどかないなら、僕は女性であっても容赦はしない」
やはりリィリは動かない。だが、白い指先に、紫水晶のような光が宿った。
侵入者は剣を構えた。もう一人の侵入者も、持っていた身の丈ほどもある杖を前に掲げた。そろそろ傍観しているのはまずいかもしれない。
「やめなさい」
ウォレスは扉をくぐり、リィリにそう呼びかけた。
一触即発の雰囲気から一転、侵入者二人は慌てて後ろを振り返り、リィリはナイフをすぐさま下ろした。同時に魔力も消える。
「あんたたちが、勇者と魔導士だな。噂はかねがね聞いているよ」
口端を上げてそう言えば、侵入者である少年と少女が、怪訝そうな顔でウォレスを見た。
剣を持った精悍な顔の少年と、物静かで柔らかな雰囲気を持った、魔法を使える少女。想像していたよりも、ずっと大きな信念を持った顔をしている。ただ、少年の思い詰めたような表情は、どこか痛々しかった。
「あなたは……」
少年たちは答えなかったが、ウォレスの予感は確信に変わっていた。