三合目:吹雪の春
結局、藍原は何のことを言っていたんだろうと、吹雪は腕を組んで藤宮高校の体育館前で立ち尽くす。他の部員たちはもう中に入ってしまったが、吹雪だけは藍原の車に防具を積んでいたので、彼女の戻りを待つ必要がある。
藍原は男子部長の江坂という大きい人に連れられて、駐車場を探しに行ってしまった。……暇だ。きょろきょろと、藤宮高校の設備を見回す。
素朴だ。お嬢様校仕様の自分の学校より、やっぱり色々ボロい。ただ、この伸び伸びとした素朴な雰囲気は自分的に好みかもしれない。
そうやって学校を見回していると、
「ねえねえボロいでしょ、うちの学校。乾さんには珍しい?」
女子部長と名乗った立花纏に肩をとんとん叩かれた。
他部員の誘導が終わったのだろう。ギリギリの明るさを攻める派手髪は、確かに吹雪には珍しい。
「うん、少し。でも、嫌いじゃない。のびのびしてる。桐桜は、規則とかとても窮屈」
「あらありがと。生徒会長としては嬉しいわね。……うーん。乾さん、ほんと可愛いわー」
生徒会長という単語で、吹雪の意識がぶっ飛んだ。
えっ、冗談じゃないの? 本気で? 吹雪に数多のカルチャーショックが襲いかかる。特に、人見知りを知らないこの挙動。初対面の自分をなでなでしたりほっぺた引っ張ったり。
この人、おかしい。
「た、立花さん、変」
「あら、どうして?」
「だって、わたしが……」
怖くないの? と聞きたくなる。一応、剣姫とか呼ばれているのだ。ウザい男が寄って来なくて助かってもいるが、同時に他校の女生徒も寄ってこなくなる。それが、普通だ。
「わたしが何? 可愛いでしょって? その通りよねー。こんなの触っとかなきゃ損だわ」
とん、とデコを軽く突かれる。
顔を上げると、彼女の悪戯っ子のような笑顔があった。
「こーいう子をぼっこぼこにしても許されるから、剣道って好きよ」
あ。わたし、この人好き。
吹雪のしっぽがぶんぶん振られる。
「吹雪って呼んで、立花さん。絶対、大将来てね。死んでいただくから」
「ん。纏でいいわよ。……ああもう、ほんっと可愛い。ねえ、吹雪は彼氏いるの?」
「いない。邪魔。纏さんは?」
「残念ながらあたしも今はね。こんな美人、ザコに売るのはもったいないでしょ?」
こくこくと吹雪は頷く。わたしも。わたしも強い人以外無理。
そうやってじゃれていると、藍原と一緒に江坂がこちらに戻ってくるのが見えた。あの人も、こんな感じかな?
わくわくしながら待っていると、纏が突然頭に両手を置いてきた。
「あ、あのね吹雪。ちょーっとだけ、心に留めておいてほしいんだけどね?」
「うん。なに?」
「……………………………盗っちゃダメ、よ?」
ねえわたしこの人超好き。持って帰っていい? 甘えるように吹雪からしばし抱きついていたが、電気が走ったように感じていきなり離れた。左踵を立ててぎゅっと回転、黒曜の瞳をかっと開いて、迫り来る弾丸を捉える。顔の前に左手を構えて衝撃に備え――来た!
ばしっ!
「……痛い。鍵を上から投げないでください。粗暴にも程がある」
「捕れたんだからいいでしょー♪ 乾さん、車から防具降ろしてきて。あとで先生も行くからキーはそのまま挿しといてね。……あと、それから」
藍原の声音が変わる。さっきから、その防具に関わると、ずっと。
「『アレ』もちゃんと、持ってきてね。お願い」
吹雪はこくりと頷き、ようやく練習に入れると、南門の前に停めた車のもとへダッシュする。すぐに後ろに回り込んで、トランクを開いた。
防具袋は三つ。竹刀袋も三つ。普通に考えれば二分割して運ぶところだが、さて、どうしよう。まずは、この問題の謎の防具から――。
箱の中へと潜り込んだ吹雪は、まだ、何も知らない。
その手に掴んだものこそが、長年探し求めていた希望の光だということを。
× × ×
そして悠もまた、自分を待ち受ける出会いを知らずにいる。時を同じくして、悠は学校の最寄り駅から南門に向かって歩いて来ているところだった。
電車の中で偶然会った、史織と一緒に。
「日曜も出るって偉いなあ。真面目だ。やっぱ眼鏡かけてるから義務化してんの?」
「人の眼鏡をビジネスみたいに言うのやめてくださいよ! これは紛うことなきガチ眼鏡です! なんならかけてみますか? 一瞬でクラッとして吐きますよ。ほら、ほら!」
「あーもういいもういい。分かったから。歩きにくいよ」
寄ってくる史織を邪魔邪魔と払いのける。すると、彼女は意外そうに目を丸くしていた。
「……どうした? 急に固まって。帰るなら今のうちだぞ?」
「か、帰りませんよ! あれだけ言われたら逆に見てやろうってなるじゃないですか!」
普通ならない。この子はやっぱり、剣道向きのあまのじゃくだ。
「……こういう反応されるのは初めてというか。……なんか、そっけなくないですか?」
「当たり前だろ? 深瀬とは適切に距離置かないと。危ないもんお前」
「ちょ、ちょっと! なんでそんな地雷女みたいに思われてるんですか!?」
むっとしているところが、年下っぽくて微笑ましい。けれどこの子には本当に、あんまり深入りすべきじゃない。
「だってお前、上手くなりそうな感じがするもん。だから嫌だ」
「……なんで。つ、強い女の子は、嫌いですか?」
「いや? そんなことないよ。強い人間は大好きだ」
悠は、心からの気持ちを口にする。
「どこかにいるならぜひ会ってみたいな。強い、女の子」
その出会いは、唐突に訪れた。
門の近くに停まっている車のトランクが、ごそごそ揺れているのが見える。不思議に思って寄ってみると、近くについた瞬間に動きが止まった。同時に、悠の中の時間も停まる。
光り輝くような美少女が、中から這い出てきたからだ。
身体には三つの防具袋を通していて、三つの竹刀袋を抱きかかえるように持っている。こんなに剣道具が似合う子は見たことがない。……なぜだ。素通りできない。
悠は、彼女が抱える防具のひとつに向かって、ふらふらと吸い寄せられていった。
× × ×
探し求めて、ようやく見つけた。……防具と竹刀を一度に運べるベストポジション!
「……ょし。ぃける……」
吹雪は、剣道場でそうするように力強く一歩を踏みしめる。
すぐに、ふらふらと身体が揺れ始めた。……大丈夫。このまま保てば自分ならいける。
「いやいやいや、いけてないって! 待て! 歩くな止まれ! 危ないから!」
後ろから突如やってきた謎の男に、あっけなく姿勢を崩される。竹刀袋を全部奪い取られてしまった。不覚だ。鍛錬が足りない。……というより。
「なに。あなた、誰。返して」
へにゃっとして弱そう。顔はかっこいいけど、邪魔。
吹雪が、知らない人にいきなり触られた犬のように牙を剥く。奪われた三本のうち二本を、半ば飛びかかるような勢いで奪い返した。
「あっ、こら! 無茶すんなよ! 桐桜の子だろ? ひとりでこの量を運ぶのは厳しいって。手伝うよ。……あ。俺、水上悠」
「知らない。聞いてない。早く返して」
「横暴すぎる! そっちが聞いたんだろ!? とにかく任せろって」
「やだ。ひとりで大丈夫。だって、わたしだもん。信じて」
「あの震え方で何を信じたらいいんだ! あーもう無理無理! 絶対返さない!」
「……あ、あの、先輩方。落ち着きましょうよ。ここに三人いて、行き先みんな一緒なんですから、三分割したらいいじゃないですか。それが一番合理的です」
横から現れた頭の良さそうな美人に、吹雪が元からくりくりした目をさらに丸くした。
綺麗だ。すごく大人っぽい。敬語? まさか……これで年下? うそ……。
道場では一歩も引かない吹雪が、思わず後ずさる。
「け、剣道部の人なの? でも、これは……」
「ここでモメてる時間と体力、練習に使ったほうが効率的だと思いますよ」
ぐぬっ、と唸る。
要領悪い子脳筋ちゃんなのは悲しいほどに自覚していた。理詰めで殴られるとすぐに何も言えなくなる。また一歩、吹雪が下がった。
そんな風に隙を晒してしまったからなのか。びっくりするほど鮮やかに、男に防具袋を一つ奪い去られてしまった。
それは藍原から意味深に任された、例の防具袋だ。
「はい、もうこれ俺のだからな! 二度と手放さないぞ! だって、こんなに――」
返せ。
そう言って飛びかかることが、しかし吹雪にはできなかった。
「……なんで、ここに……」
まるで急に血でも凍り付いたかのように、彼が色を失っていったから。
その顔の理由を問う機会を、吹雪は失う。後ろから、猛然と藍原が走り寄ってきたからだ。
「悠坊っ! ……おっきく。おっきく、なったねー!」
「……瞳」
顔も雰囲気も、数年会ってないのに全く変わってないなと悠は思う。それだけに、変わってしまった自分がどこか恥ずかしく、同時にこんなことをした彼女が恨めしかった。
「……深瀬。悪いけど、この子連れて先行っててくれ。コレは俺が持ってくから」
「乾さん、先生からもお願い。先に練習、しといて」
有無を言わさない圧力に、分かりましたと二人は答える。すぐに道場に駆けていった。
その姿を見届ける。悠は瞳の方を向けないまま、右手で髪を掻いた。
「……悪質なイタズラだぞ。考えたの、瞳か? なんか、らしくない気がする」
「あはー。あたしたち、かなー。確かに、向いてないよねー。すぐバレちゃった。……ごめん、ね?」
「……その泣きそうな顔止めろよ。いっつも卑怯だぞ。……せっかく、会えたのに」
決めた。この件は後でゆっくり聞くとして、今は保留だ。
悠が、瞳に正対する。面映さを持て余したような、等身大の高校二年生の笑顔で。
「久しぶり、瞳。なんか、その。……会いたかったよ」
「……うん。うんっ。あたしも。あたしもー、ずっと会いたかったー! 話したいこととか、頼みたいこととか、許してほしいこととか、たっくさんあるんだけど」
ずいっ、と藍原は一歩前に出て。
「まずは、ぎゅっと抱かせてー?」
すすっ、と悠は一歩後ろに下がる。
「いや、いやいやいや。……落ち着いて考えたほうがいい。俺もう、高校二年生だから」
「はぁ!? 何言ってんのー!? まだ高校二年生でしょー? おとなしく姉ちゃんに抱ーかーれーろ♪」
悠は脱兎のごとく、全力疾走――をしようとしたが、制服を掴まれて無理だった。
「キツい! マジでキツい無理無理無理無理! やめよう!? なあ、ほんとにマジで! 姉ちゃん高校教師だろ!? 職業倫理的にマズいって!」
「本能的によければオッケー♪ ……はぁぁ。『姉ちゃん』って言った。『姉ちゃん』って言ったなー! しゅきぃー!」
ストレスで、禿げてしまわんほどの愛。
恥ずかしすぎるが、思い出される遠い日々のことが、やはり懐かしくて仕方なかった。
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