× × ×
剣道、よく分かんない。
「きゃ――――あああァああッ!」「てッ、めぇえええ―――んシゃァっ!!」
けどこの『非日常』は嫌いじゃないなと、長椅子で見学中の史織は思う。
桐桜学院と藤宮高校の練習試合は二試合目。桐桜学院は二連戦だ。一試合目は藤宮女子との試合で、今は藤宮男子との試合になる。史織は試合から一旦目を切り、道場隅に立てかけられているホワイトボードを見た。
先鋒、次鋒、中堅、副将、大将と書かれた欄の下に、それぞれ人の名前が書いてある。
全体のルールはなんとなく分かってきた。五人戦って、勝ち数が多いチームの勝ちだ。勝ち数が同じ場合は、チーム全体が取った一本の数で勝ちを決める。それすら同じだったら、多分、チームから一人出して代表戦とかいうやつになるんだろう。流しみした雑誌に、そういう単語が書いてあった記憶がある。
史織は貰った古い『剣道ジャーナル』を胸元に抱きしめ、スコアを見た。
「桐桜学院、強いんだな……」
さっきの女子戦は五対零で桐桜がストレート、今も副将戦確定前で一対零だ。最近強くなって、去年は県予選の決勝まで行ったと聞く。男子とまで互角というのは、普通なのだろうか?
「どおォッ、しゃあああああ―――――ッ!」
ばしーっ、といい音がする。江坂が相手の近いところで胴を打って、後ろに下がった。
おお、これはイッポン入ったんではなかろうか? と、史織は審判の三人を見てみる。
微動だにしていなかった。
「剣道、よくわかんない……」
「色々と初見殺しだからな。現状、間違いなくオリンピック化はないと思う。剣道をKENDOにされるのも微妙だろうし」
「あっ、水上先輩。お話、長かったですね。……今の、なんで入ってないんですか?」
「元打ちだから。そんなんじゃ斬れてません、ってことだよ。……隣、座るな」
いいですよと言う前に、悠がぴたっと隣に座る。近くてちょっとドキッとした。
同じタイミングで、時計係の千紘がぴりぴりとブザーを鳴らす。これは、試合時間の四分が終わった音だ。
江坂と桐桜女子の副将二人が、白い正方形で描かれたコートの中心にある、バッテンを挟んだ二本の開始線にそれぞれ戻った。竹刀を静かに構える。
そして主審の纏が、左手に持つ白旗――藤宮男子の色を、左斜め上にぴしっと上げた。
「勝負あり!」
江坂の勝利で、スコアは大将戦を残して一対一。つまり勝負の行方は、大将戦次第となる。
「江坂先輩は、部長で、一番強い……んですよね? どうして大将じゃないんですか?」
「副将に一番強い奴を置くってのは、強いところがたまにやるから無くはない。……でもまあ多分、八代くんがワガママ言ったんじゃない? 乾さんとやりたいですって」
白線前でぴょんぴょん跳ねる八代を見て、悠がくすくす笑う。
何がおかしいのだろうかと、史織は首を傾げる。
「やっぱりあの人、強いんですか? 見ててもあんまり分かんなくて」
「……強くは、ないんじゃないか? 多分」
「あれっ、そうなんですか? じゃあ、どうして八代は?」
「ん? どんな男も、美人とやれたら嬉しいだろ。同じ空気吸えるだけで嬉しいよ」
史織はすぐに、その言葉が嘘だと分かった。どんな男もって、そこは嘘。
「……先輩、さいてーです」
それから、自分も。
だって見破った根拠が、『先輩は自分といるのに楽しそうじゃない』だったから。
「知ってる。だから、あんまり関わらない方がいいかもな」
史織を捨て置いて、悠は試合前の二人の背中を見つめる。
左腰から右肩、右腰から左肩と背中に通した胴紐の交差点にはチーム分けのタスキがある。八代の背には白色が、そして『剣姫』の背には、紅色のそれが着いているはずだ。
『目がねー。離せない子がいるんだよー』
さっき猫可愛がりしてきたとき、瞳がそこまで言っていた。一体どんな子なんだろう。
答え合わせのように、今、試合が始まる。
審判二等辺三角形の頂点、主審の纏が、両手に持った旗で「前へ」と入場を促す。八代と吹雪が白線の中に入って、三歩で蹲踞できる位置で立ち止まった。
小さく礼。「お願いします」の声が重なる。同時、悠の声が無意識に漏れた。
一歩、二歩、三歩。『剣姫』が威風堂々、世界の中心で剣を抜く。……ああ。
「綺麗だ」
「始めっ!」
「ヤぁああああ――――――――――――――――ッ!!」
豹変の叫びが、道場を呑み込んだ。誰もの視線が、吹雪に吸い寄せられてしまう。飛び抜けた風格とは、そういうものだ。美しい中段構えで中心を制圧し、ぐいぐい圧倒的に攻めていく。まるで教科書みたいに綺麗な攻めだと悠は思う。
「先輩。……どうですか? 乾さんは」
「上手い。頭一個くらい抜けてるよ。なかなかお目にかかれないな」
「そうなん、ですか? 私、ルールが分からないので、何が強いのかわかんないんですよ。貰った雑誌にも、当たり前過ぎて試合の解説とかは載ってないし……」
ぺらぺらと史織が捲る雑誌を見て、悠は再びぎょっとする。
「また『剣ジャ』かよ……。捨てても捨てても出てきやがって。ルールなら俺が教えてやるから、これは置いとけ」
史織の手から雑誌を奪い、長椅子の誰も座っていない傍に置く。悠が試合コートを指した。
「あの正方形が試合場で、真ん中のテープで出来たバッテンが中心。そこからちょっと離れた位置にある小さなラインが開始線。あそこで剣を合わせて、蹲踞っていう変な儀式やってから開始。試合時間は高校だと四分で、先に二本取ったほうが勝ちだ。旗が三本中二本以上あがれば一本になる。基本的にこれだけか?」
「……あ、はい。そういう基本的なことは見てたら分かるんですよ。けど――」
八代と吹雪の戦況を見る。二人は右拳と右拳を合わせて密着していた。
鍔迫り合い――格闘技で言えば、クリンチだ。
そこから吹雪は後ろに飛び退き、強く小手を放った。
「ッ手ぇ――――!」
桐桜部員が歓声を上げて拍手する。しかし、審判は誰も旗を上げないままだ。
「今の、何で入ってないんですか? 当たってるじゃないですか」
「ん、今の引き小手? ないない、さっきも言ったけど元打ちになってるから。竹刀の先っぽから三十センチくらいのところに結び目あるだろ? 中結っていうんだけど。刀準拠だから、剣先から中結の間で当てないと殺傷力無しの元打ちとみなされて無効になるんだよ」
「だりゃっ、らああああ!」「八代、決めきれ! 甘いぞ!」
「……今のはちゃんと先っぽで当たってましたけど、あれも違うんですか?」
「江坂部長が言ってた通り、決めきってないからな。踏み込み浅いし残心取ってないし。さっきから二人とも、打って当たったあとは声出してカッコつけてるだろ? 面とか胴だと通り抜けてるし、小手だったら打った場所で竹刀を止めてる。
あれは、残心っていうんだ。いわゆるキメ。殺し合いだったら、当てても相手がまだ生きてるかもしれないだろ。だから油断しないように、心を残すって書いて残心をとる。弓道とかにもあるんだぞ」
悠が解説を終えると、史織はゆっくりと眼鏡を外した。ハンカチで拭く。剣道って、ちょっと初見殺しすぎない? ……深呼吸してから、史織は再び試合に集中する。
趨勢が今、決しようとしていた。
緊張は一瞬。吹雪の翻弄するような素早い足さばきが前へ前へと躍り出る。踵を立てた左の五指には床をもぎとるような力が篭もっていたが、それを感じさせないよう、吹雪はそよ風のような軽さで間合いに入る。ふっと剣先を下げた。明確な隙だ。糸が切れたのを感じ取り、八代は全力で面に飛ぶ。「っ、め――」
「ッ手ぇ―――――――――ええええっっしゃああああああ、ヤあァッ!」
それが吹雪の垂らした釣り糸だと気付かず。
今まさに動こうとする八代の右手に、吹雪の竹刀が綺麗に吸い込まれていく。ばこんと心地の良い音と一緒に、三本の赤旗が上がった。
「小手あり!」
「うん、決まったな。あれがほんとの一本だ。見えたか?」
「え、あ、今のって、面が入ったんじゃ……?」
「の、前に小手が入ってる。出小手だな。相手が出てくる瞬間に合わせて小手打ち。一番良く見る技だなあ。試合で百本決まり技が出たら、四十本くらいは今の技になると思う」
解説を聞きながら、史織の両目は打ち終わった吹雪を追っていた。
彼女は排熱のように息を吐き、無言で副審二人の後ろをゆっくり回って開始線に戻っていく。さっき一緒に歩いた、可愛いお人形さんのような吹雪は面影もない。完全なる別人だ。面から覗く黒い瞳に、灼熱が宿っているよう。……それだけじゃない。見えた。
潤んだ白桃のような唇が、渇きの言葉を紡いでいるのを。
――足りない。
「二本目!」
「っしゃァああああ―――――――――やあぁッ!!」
前へ。前へ。前へ――じゃないと、追いつけない!
吹雪は空の踏み込みと共に、竹刀を自在に操り相手に牽制をかける。完全に女子離れした速度と変化だ。
しかしそれだけでは、男子の土俵で戦う八代には通じない。もう釣られっかと冷静に看破し、スキを見つけて面に跳ぶ。「りゃあぁァア!!」
吹雪が反応して竹刀で受ける。打突を捌いて、けれど体重を受け止めることはせず、ひらりと躱すように引き面を打った。「めェん!」
――あぶねえ。八代がカンで、首を右に反らしてどうやら正解。
竹刀はクリーンヒットせず、引いた吹雪と八代の間に大きな間合いができたが。
それを吹雪は、一秒足らずに詰め切った。
――速ぇ!
吹雪の速度を見誤ったこと。先に一本を取られていたこと。理由はともあれ、八代はそのとき微弱に焦る。それが思考なき一刀に繋がった。
反射で乾坤一擲得意の面打ち――いいぞ残心取って決めちまえ!
空虚な皮算用だった。
捉えにいった吹雪の頭が消えている。どこだと探している時点でもう遅い。彼女の頭部と切り返した刀は、既に八代の懐なのだから。
「っ、タぁああああ――――――ッ!」
先に旗が上がって、まるで後から打音が追いついてくるよう。
「胴ありっ!」
八代の胴が、竹が弾ける音と一緒に攫われていった。ほう、と悠が息を吐く。
「綺麗な抜き胴だなー。額縁に入れて飾っときたいレベルだ」
「……あの、先輩」
「ん?」
「一緒に見てて思ったんですけど。何だかんだ言って、先輩って結構剣道好きですよね?」
鳩がバズーカを喰らったような顔。それぐらい面喰らった顔の後、悠はいつもの下手くそな笑顔で静かに首を横へと振った。そして後輩相手に、一切の手心なしで強く言い切る。
「大っ嫌いだ。生きててほんとに一回も、楽しいと思ったことがない」
勝負ありを纏が告げて、両校が整列する。二対一。桐桜学院の勝利。両校生徒は、道着を着ている自分の顧問のもとに指示を仰ぎに行く。
しかし、佐々木も藍原も、片手を前に出してそれを差し止めた。
藍原が、佐々木のもとへと歩いていく。
「佐々木先生。もう一試合、女子で。……そこで、いいですかー?」
「ええ。私の子たちも、全員負けたままでいたくはないでしょう。……というのは、口実で。私もただ、見たいだけなのですが」
佐々木が微笑む。藍原は、なんだか泣きそうに笑い。逃げも隠れもしない、凛とした声でその名を呼んだ。
「悠坊。……次の試合、出てよ」
藤宮高校も、桐桜学院も、何を言っているんだとどよめきが起こる。
静かなのは、ただ、呼ばれた悠だけだ。腕を組んで、まるで眠るように閉じていた彼の目が、ゆっくりと開く。
「正直、言われると思ってた。……イヤって言ったら?」
「あはー。考えてないや。どうしよっかな。ここで泣くかもー」
「……瞳はいつも、ズルいよな」
間延びした適当な答えを、悠は期待する。それならば、たとえ身内でも斬ることができる。
「うん。知ってる。嫌っていいからね、悠」
返す刀は、冷気を帯びて張り詰めた声。心底愛した、御剣の姉弟子の声だった。
「そんな無理なこと、今さら言うな」
悠が、天を見上げる。
窮屈な天井。親の仇のように睨みつけて、そして悼むよう目を閉じる。
「………………家族の頼み、か。……今日だけでいいかな。瞳」
「……うん。あたしからは、それ以上望まない」
「……佐々木先生も、いいんですか? こんなのが試合出て」
「愚問です、悠くん。私が君を拒むはずがない。私は大人で、教師だ。……それから」
悠は、優しい熊が眠りから覚める瞬間を見届ける。剥かれた牙が鈍くて眩しい。
その輝きの正体を、悠は知っていた。
「同じ『御剣の刀』として、私は君を逃がしたくない」
懐かしい名前。もう二度と、聞きたくない名前。
「……わかりました。……俊介」
なのにどうしてだろう。やはり身体に馴染んで、笑ってしまった。
「更衣室、案内してくれよ。東京よりは近いだろ?」
× × ×
剣道場のすぐ近く、体育で生徒が使う体育館一階の男子更衣室。
そこで悠は、自分の防具袋と竹刀袋をどかっと下ろす。
隣で城崎が喜んでいた。
「悠とはやっぱヘンな縁があるよな! 後でオレとも試合やんね?」
「えー、やだよ。喧嘩良くない。キライだ。……友達なら、喧嘩はやめよう」
二人で話していると、黒瀬も更衣室に入ってきた。手に、一本の竹刀を持っている。
「よう、水上。ご愁傷さん。やっぱ他人の不幸って最高すぎんだよな。せいぜい苦しめ」
「黒瀬って、典型的な日本人体質だよな……。それは?」
「クロでいい。……三八だ。やんよ。お前、どうせ持ってねぇだろ」
剣道は、中学、高校、それ以上と竹刀のサイズが違っている。中学は三尺七寸、高校は三尺八寸、それ以上は三尺九寸だ。公式戦はこのレギュレーションに沿わないと失格となる。
悠は苦笑し、黒瀬から竹刀を受け取った。
「サンキュ。確かに三八は持ってなかった。鍔は自分のがあるからいいよ」
竹刀袋を解く。そのさまを二人がまじまじと見つめてくるので、気になった。
「何? 男の着替えに興味あんの? ……帰っていい?」
「おれより先に帰んのは許さねぇ。おれは誰より早く帰るが。……お前、御剣だったんだな」
「やっぱ強ぇの!? てかお前、藍原先生とも親しいしさー! 何者なんだよ! ずりい!」
きょとん、と一瞬悠が固まる。
それから作る顔を考えて、いつものように柔らかく、ぎこちなく笑った。
「残念ながら、水上悠には、輝かしい成績等は一切ございません。ご愁傷様でしたー。……突然現れた転校生が実はめちゃくちゃ強くて、部の力になってくれるって? それはちょっと、夢の見すぎじゃないか? 他人にしては都合が良すぎる」
「はは、まーな。でも、そうだったら楽できんのになと思ってさ。……じゃ、後でな」
城崎がたたっと駆けていく。けれど黒瀬は、すぐには外に出なかった。じっと、笑った悠の顔を見て。
「夢、ねえ。……おまえさあ」
「なんだ?」
「……いや、やっぱ何でもね。ちょっとサボりたかっただけだ。あばよ」
今度こそ、完全に一人になる。悠は防具袋の前で、真犯人の顔を思い浮かべた。
『それを捨てるだなんてとんでもない!』
ここでもまた、捨てきれずに拾ってしまう。それがどうしようもなく母らしい。
本当に、余計なことばっかり。せっかく最後の賭けの最中なのに。胴元が前提を投げるなよ。『だいじなもの』はもう大事じゃない。
だから捨てられるはずなのに、今あるこれは一体何だ?
「…………ああ、そっか」
思い至って、苦笑を一つ。答えは単純。
この道を選んだら最後、死ぬまで消えないステータス。
「呪われてて、外せないんだな……」
× × ×
着装を整えた悠が、道場に入ってくる。
胴と垂れと竹刀と、左脇に抱えた面と篭手。そして手拭いを口に加えていた。浅く息を吸うと、汗を吸った竹と防具が混じった、鼻の奥に届く独特の匂いがする。絡んでくる部員たちを適当に追い払い、悠は道場で体操を始めた。身体中のあらゆる部分を、入念に伸ばして。
そんな悠の左肩を、江坂が叩いた。
「切り返しを受けてやろうか、水上。基本打ちも、少しなら時間を融通できるぞ」
「……いや、気持ちだけもらっときます。大体二年くらい離れてるんで、アップよりもぎりぎりまで身体をほぐしたいかな。試合中に腱切れましたとか、笑い話にもなんないでしょ」
「そうか。お前がそれでいいのなら俺は構わない。……相手だがな」
江坂が親指でホワイトボードを指す。女子軍に交じった水上と、乾の名前が対峙していた。
さて、御剣出身のこの男はどんな顔をするのか。江坂は部長として、悠を測ってみる。
「楽しいデートになりそうですね。妬けますか?」
「……ああ。さっきは押しが足りなくてな。別の男に取られてしまった」
笑っている。すぐに、個人として好きになってしまった。次に口説く人間を心に決めて、江坂は背中を叩いて去ることにする。……よし、主審をやろう。
こういうモノは、近くで見るに限るのだ。
× × ×
「お互いに、礼っ!」「よろしくお願いします!」
拍手をして両陣営が下がる。先鋒の円香とその相手は開始線の近くに残り、主審の江坂、副審の黒瀬・城崎も配置についた。戦乙女プラス、余計なやつイチの準備は万端――。
「始めっ!」
両軍が拍手。高い二人の掛け声が二つ、道場の中で混じり合う。倍速動画のスピード感で動き始めた桐桜の先鋒が早速小手面を放つが、読んでいた円香は防御しながら間合いをゼロに。鍔迫り合いから、両校の試合は始まった。
白、藤宮高校のオーダーは先鋒、幸村。次鋒、藤野。中堅、二宮。副将、立花。大将、水上。
赤、桐桜学院のオーダーは先鋒、速水。次鋒、大貫。中堅、三刀。副将、柏倉。大将、乾だ。
桐桜学院のオーダーは公式戦と同じガチモード。だからどうしたと藤宮女子は相手を睨んだ。
「部長命令よ。一人一殺で全員殺害。異議のある奴は今すぐ切腹ッ!」
纏の目が燃えている。据わっていると言っていい。
「まじ殺す必ず消す絶対潰す呪ってやる生まれたこと後悔させてやる」
面を着けてる、確か藤野という小柄な子は、止めどない怨嗟の念を早口で述べていて。
「…………………………」
逆に口から生まれたはずの千紘は、黙って静かな闘気を滲ませていた。悠は、ほっと息をする。どうやらみんな、ちゃんと自分を見ていない。
「幸村先輩。中心取ってー」
気付けば、口に手を当てて声を出していた。団体戦に座るのは何年ぶりのことか。考えていると、視線の先で竹刀が弾けた。共に一足一刀、交差した竹刀が起こったのは同時。
「めぇん!」「やりゃぁあ!!」
選択したのはお互いに面で、どちらの剣も頭に当たる。
相面と呼ばれるシチュエーションだ。
どちらが先に当たったか、それはコンマ一秒以下の世界だが、その僅差を分かつものこそが、鍛錬によって培われた実力にほかならない。
「面あり!」
だからやはり、現状旗が上がるのは桐桜学院だ。その後も円香は粘ったが、とうとう取り返すことはできず、時間切れの音が鳴ってしまった。
「勝負あり!」
円香が、目に見えて落胆して帰ってくる。無念を拳に込めて次鋒の胴にタッチした。
「ごめん、葉月……」
「いい」
葉月が出陣するのを見届けて、円香は自陣に戻って面を外す。何も言えなかった。
「ユキさん、気にせんとって。うちが取り返してくるから。……絶対、負けへん」
入れ替わりで面を着けた千紘が、力強く剣を握って立ち上がる。彼女が遠くへと竹刀を振りに行ったおかげで、次鋒と中堅の二人がいなくなった。「……円香。ちょっと来なさい」
纏はしょぼくれた同期を目の前に呼び、両肩に手を置いた。
「あんたヘコみすぎ。悪いクセよ」
「うん……。わかってるんだけど。……ほんとやだな。どうしてわたし、こんなに弱いのかな」
「別に落ち込まなくてもいいんじゃないですか? いい試合でしたけどね」
悠は励ますよう、円香に笑いかける。
「ありがとう。優しいね、水上くん。……でも、だめなものはだめなんだよう」
「そういうこと言ってると、本当に下手になりますよ。いいところはうぬぼれて、悪いところは考えてさっと直しましょう。楽な方に逃げちゃダメです」
「…………う、うん。ありがとう」
あ、しまったと悠は口元を押さえる。
こういうのは本当に良くないのだ。控えないと。
冷静になって隣を見ると、正座している纏がニヤニヤしてこっちを見ていた。
「いいコト言うじゃない水上。入部しなさいよ。もっと円香とイチャつけるのに」
「……ごめんなさい。黙ります」
「そ、そんなこと言わないでよっ! ……わたし、本当に、嬉しかったよ?」
なんかムズムズして、微妙に居心地が悪い。大将だから面を着けるまでまだ余裕があるので、史織のところに行くことにした。ひとり長椅子で、借りてきた猫のようになっている。
「……あ。先輩。やっと来た。あの、もいっこ教えてくれませんか?」
けれど悠がやってくると、返却済みの猫くらいにはなった。面白くて笑ってしまう。
「やっぱり根が眼鏡だよな、深瀬は。なんだ?」
「真面目のこと眼鏡って言うのやめてくれませんかね……。あの、今、桐桜の人の旗が、斜め下に出てるんですけど。あれ、なんですか?」
二人で「止め」がかかっている試合を見る。葉月が場外から開始線に戻っているところだった。主審の江坂が左手で両方の旗を持ち、空いた右手で指を一本立てた。
「反則、一回」
「今聞こえたかもだけど、あれは反則。剣道にもファールがあると思えばいい。反則二つで一本になっちゃうから、基本的に取られたくないんだ。途中で消えないしな。反則には色々あるけど、代表的なのは三つだ。鍔迫り合いが不正、竹刀を落とす、それから、場外に出る。今見たやつがまさにそれ。だから、試合するときは位置に気を付けるんだ。例外的に外に出ていいのは、一本キメて残心を取ってるときだけ。その時は自由」
「……外に出てキメて、それでも一本入らなかったら?」
「残念ながら反則。超マヌケな感じになってみんなに笑われる」
「うーん、なるほど。相当自信ある変態じゃないと無理ってことですね」
言い方よ、と笑ってみる。再び試合を見てみると、桐桜相手にいい試合運びをしているのが見えた。実力は完全に相手のほうが上だが、気後れしていない。技の選び方も冷静だ。
剣道は、試合時間の中で勝ち切るのがかなり難しい。
これは引き分けになるな、と悠は断じた。
「そろそろ戻るな。……まあ、もうすぐ俺もやるんだけどさ。あんまり面白い内容になるとも思えないし。離れたところで、ゆっくり見てろよ」
「はい。……あの、先輩」
声に振り返ると、史織がなぜかそっぽを向いている。
「ど、道着姿。意外と、かっこいいですね」
「……今度制服のときに言ってくれよな、それ」
こんなに悲しい褒め言葉はないと、心からそう思った。
× × ×
刀を納めて葉月が戻る前から、勢い余って千紘は試合場に入る。
マナーが悪い。けれどそんなことを気にしている余裕など何処にもない。口から生まれたと揶揄されるいつもの唇を真一文字に結んで、眼光を特別な相手へと向けた。そしてそれは、対峙する愛莉も同じ。隠す気なんて微塵もない殺気を、自分にだけ聞こえるよう形へ変えた。
殺す。
「始め!」
反則すれすれのタイミングで、二人は江坂の声を遮り、火花の如く打ち合っていた。
「ッしャア!」「きああああああああッ!」
それは豹変と言ってもいい。両軍、味方のはずの人物に驚きを禁じ得なかった。
「ち、千紘、何だかいつもと違わない……?」
「あら、知らないの? 有名じゃない。あいつら、中学の同期よ。『清船中三本刀』と言えば……ってそうか。円香、高校からだったわね」
喧嘩という言葉がこれほど似合う戦いもなかった。打突部位が防具を外れてもお構いなし。体当たりで相手が転けても剣を止めず、愛莉は追い打ちの面を何度も放った。
「止め!」
手なんて差し伸べない。自分で立てと、背中を向けて愛莉は開始線に戻る。
「始め!」
均衡を破るきっかけは、その再開だった。冷静になった千紘の頭が再び熱に侵される前、最善の一択を選び出す。白黒付けることを望むよう、相面を誘う。そして愛莉はそれに乗った。
「っ手ェ―――――えええええ! しゃああああっ!」
だから、冷静なほうに旗は微笑む。千紘が得意とする出小手がばこんと決まった。
「小手あり!」
そして、取ってなお千紘は緩まなかった。彼女の勝因は、それに尽きるのだろう。
「勝負あり!」
先鋒が負けて次鋒は引き分け。そして今、中堅が勝ってスコアは一対一だ。気合十分に纏は立ち上がり、試合へと赴いていく。入れ違いに帰ってきた千紘が悠の隣にへたり込むのと、纏の試合が始まるのは同時だった。悠は試合から目を切り、千紘のケアをする。
「おつかれ、ちっひ。気合入ってたな」
「っ……はっ、はっ……。……ふ、っ。へ、へへ。……あり、が、と……」
肩で息をして、呼吸もままならないまま千紘が笑った。咳き込みながら面を取る。四分間、全力で動き続けていたことがよく分かる。瀕死だった。
「死にそうだな。ちょっと色っぽいな。いっつもこうなんの?」
「あは……。ギャップ、もえやろ? 今日は、ちょっと、特別なんよ」
桐桜陣営に向けた千紘の視線を追う。よほど悔しかったのか、試合相手の三刀という子は篭手をつけた手で床を殴っていた。
千紘が、悪い顔で笑う。初めて見る顔だった。
「ライバルって言うたら、ちょっと恥ずいけど。……あいつだけには負けたない。死んでも。
ゆーくんにはおらんの? そういう相手」
「……んー。俺にはおれへんなー。わからへーん」
千紘の言葉をエセ関西弁で受け流して、いつものように適当に笑う。それからぺこりと正面に一礼して、面にかかった手拭いを手に取り広げた。デコすれすれを攻めて、前髪が全部上がるように。頭皮に沿った手拭いのラインが耳に当たったら、端と端を前で交差する。右辺は左のこめかみに。左辺は右のこめかみに。
ぎゅぎゅっと力いっぱい引っ張って、手拭いは完了だ。
「……ゆーくんって、すぐ部活辞めたんやでな? 見えへんなー」
「部活はな。……身体に染み付いたもんはじーさんになっても忘れないよ。呪いみたいに」
蝶結びになった面紐の輪状部分を二回引っ張る。ぱつんぱつんと、気持ちのいい音がした。
深呼吸をひとつ。それから両手に篭手をぐいっとはめて、竹刀を持って立ち上がった。
「じゃあちょっと、行ってくるかな」
「うん、頑張り! ……今日、ほんまにごめんなぁ」
千紘はすまなさそうに頭を下げる。
「でもなー? うち、ゆーくんと一緒に遊べて嬉しい!」
けれど、上がった顔はやっぱりいつも通り明るかった。
悠は何と答えれば良いか分からず、手だけを振って広い場所へと出る。竹刀を振ってみた。
身体が重い。とても酷い。でも仕方ない。これでいい。天井を見上げ、自嘲した。
「瞳のところ、行くか」
「――引き分け!」
金星、と言っていい。死力を尽くして、纏は強豪校のキャプテンと引き分けた。つまり試合は円香の一本負けと千紘の一本勝ち、その他は全て引き分けの一対一のまま。
「よーし行くか。……上手く、できるといいけどな」
全ては、大将戦次第だった。
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