86―エイティシックス―


 第二章 白骨戦線異状なし 《1》



『退役まで残り一二十九日!! スピアヘッド戦隊にクソ栄光あれ(ファッキン・グローリー・トゥ・スピアヘッド・スコドーロン)!!』


 風雨に色褪せたバラックの格納庫の奥の壁、誰が拾ってきたのかも知らない古い黒板で、五色のチョークのカウントダウンがでかでかと踊っていた。

 クリップボードから目を上げて、シンはその底抜けに陽気な一文を見上げる。正確には残り一一九日。この戦隊に配属された日にクジョーが書いたもので、毎朝クジョーが更新していた。

 十日前に死んだ。

 止まったままのカウントダウンをしばし見上げ、シンはクリップボードの整備記録に目を戻した。待機状態の〈ジャガーノート〉が並ぶ格納庫を、整備済みの自機の元へ向かう。

 焔紅種(パイロープ)の血赤の瞳。夜黒種(オニクス)の漆黒の髪。赤系種(ルベラ)と黒系種(アクィラ)双方の貴種の血を半分ずつ継いだその色彩は、エイティシックスと総称される有色種(コロラータ)の一人と一目でわかる特徴だ。

 端正な顔立ちは年に見合わぬ静謐な表情のためにどこか冷たく、細身の体躯と白皙の容貌は旧帝国の貴族階級特有のそれ。森林と草原、湿地帯で構成される東部戦線の地勢にも関わらず、着ているのは砂色と灰色の砂漠迷彩の野戦服で、これは共和国軍の死蔵在庫(デッドストック)が回されているためだ。咎める上官もいないからくつろげた襟元に、首全体を覆う空色のスカーフが覗いていた。

 整備作業中の格納庫は、機械の作動音と整備クルーのやり取りの怒鳴り声でやかましい。格納庫前の広場で二対三の変則バスケットボールに興じる仲間達の歓声と、何処かでかき鳴らされるギターの古いけだるいロックミュージック。キャノピを開け放した自機のコクピットでポルノ誌を眺めていた隊員のキノが、こちらに気付いて片手を挙げる。

 最前線とはいえ戦闘の無い日は、この基地の要員は割と暇だ。

 本来なら毎日欠かせない哨戒活動を、必要がないから行っていないためで、今もハンドラーへの報告上は競合区域(コンテスト・エリア)付近の哨戒を行っている時間だ。出歩きたい気分だった数名が近くの都市の廃墟に物資調達に行き、他の者も当番の仕事(炊事とか洗濯とか掃除とか裏の畑と鶏の世話とか)をしたり好きに過ごしたりしている。

 荒々しい軍靴(ブーツ)の足音が近づいて、戦車砲も真っ青の馬鹿でかい胴間声が格納庫に轟き渡った。

「シン! シンエイ・ノウゼン! またやりやがったなてめぇこの野郎!」

 キノがゴキブリじみた速度でコクピットから物陰に退避し、シンは平然と声の主を待った。

「なにか」

「なにかじゃねえよアンダーテイカー! ったくおめぇは――!」

 地獄の番犬のような形相で詰め寄って来たのは、白髪交じりの消炭色の髪にサングラス、油染みだらけの作業着を着た五十がらみの整備クルーだった。スピアヘッド戦隊整備班、レフ・アルドレヒト班長。今年十六になるシンも前線の兵士の中では年長の部類だが、アルドレヒトは年長どころか長老クラス、なんと九年前の第一期徴募兵の生き残りだ。

「なんっでてめぇは出撃の度に機体ぶっ壊して来るんだよ!? またアクチュエーターとダンパーがたがたにしやがって、足回り弱えんだから無茶すんなって毎度毎度言ってんだろうが!」

「すみません」

「お前それさえ言っときゃ済むと思ってんな!?謝れっつってんじゃねえよ改善しろっつってんだよ。いつか死ぬぞあんな無茶な戦い方しやがって! 代えの部品が底ついたってのに、次の補充まで修理できねぇぞ!」

「二号機が」

「ああ有るなぁどっかの戦隊長が毎っ回毎っ回機体ぶっ壊すせいで置いてある予備が二機もな! 他のプロセッサーの三倍も整備の手間かけさせやがって、てめぇ何様だ王子様か!?」

「共和国の身分制度は三百年前の革命で廃止されて」

「ぶっとばすぞクソガキ。……お前の損傷率と壊し方じゃ三機ねぇと修理がおっつかねえんだ、補充までの日数と出撃ペース考えたら保たねぇんだよ! どうすんだよ壊れないようにってお祈りでもするか? 次は百年後に来てくださいって屑鉄どもにお願いしてみるのか、ああ!?」

「クジョーの機体を、ファイドが回収していたはずですが」

 淡々と言うと、アルドレヒトはいっとき沈黙した。

「まあ、確かにクジョーの奴の機体からその部品はとれるけどよ……共喰い整備なんざやりたかねえが。つか、おめえはいいのかよ? 死人出した機体の部品なんざてめぇの機に使われて」

 シンは僅かに首を傾げると、自分の〈ジャガーノート〉――〈アンダーテイカー〉の装甲を手の甲で軽く叩いた。キャノピの下の、シャベルを担いだ首のない骸骨のパーソナルマーク。

 アルドレヒトが苦笑する。

「今更か。……そうだったな、アンダーテイカー」

 嚙みしめるように頷いて、老整備兵は開け放したシャッターの向こう、どこまでも続く春の野を見やった。

 雲一つない、他の何ものをも呑みこむ虚無の色彩を称えた、あまりにも深く高い紺碧の蒼穹。その下に広がる、矢車菊の花の瑠璃と若葉の翠緑が精美なモザイクを描く草原が、この戦場で散った幾百万のエイティシックスの白骨が眠る巨大な墓標だ。

 エイティシックスに、入る墓はない。存在しない戦死者の墓を作ることは許されていないし、遺体の回収も禁じられている。

 人型の豚には死んだ後に安らう権利も、死んだ仲間を悼む自由も存在しない。それが九年前に彼らの祖国が作り上げ、かくあるべきと九年維持され続けている世界の形だ。

「クジョーの奴は、ばらばらに吹っ飛んだんだったか」

「ええ」

 自走地雷――爆薬の詰まった胴体に棒状の手足と球状の頭の、遠目には人に見えなくもない出来の悪い対人兵器を負傷兵と見誤って組みつかれた。夜戦の、他部隊の救援任務中だった。

「そりゃあよかった。逝けたのか、あいつは」

「おそらくは」

 シン自身は天国も地獄も信じてはいないけれど、ここではない何処か、還るべきところには。

 アルドレヒトは深く笑う。

「最期におめぇと同じ部隊にいて、クジョーは運が良かったな。……こいつらも、」

 破れたゴールネットをホールが揺らして歓声が上がる。ギターの音と調子外れの大合唱が、裏の畑の方で楽しげに響いている。

 それが他のどの部隊にもありえない光景であることを、アルドレヒトは知っている。

 出撃につぐ出撃。〈レギオン〉の襲撃を警戒する日ごとの哨戒。緊張と恐怖に神経をすり減らし、戦闘の度仲間は死んでいく。その日生きのびるのが精一杯という極限状況で、娯楽や人間らしい生き方など考えている余裕などない。

 けれどこの隊では、襲撃そのものは避けられなくとも、急襲を受ける心配だけはない。

「……こいつらがこうやってられんのはおめぇの功績だな、シン」

「他のプロセッサーの三倍も整備の手間をかけさせてるのもおれですが」

 ぐっとアルドレヒトは喉を鳴らした。サングラスの奥から苦々しげに見下ろしてくる双眸を、見返してシンは肩をすくめる。

「ったくおめぇは……たまに冗談言ったと思ったらそれかよ」

「これでも申し訳ないと思ってはいるんです。行動で示せてはいませんが」

「馬鹿野郎。お前らガキどもを生きて帰らせんのが整備班の仕事だ。そのために必要だってんなら機体なんざどうなろうが構やしねぇし、どんな手間だってかけてやるよ」

 一息に言いきってからそっぽを向いた。照れたらしい。

「……そういや、また担当のハンドラーが交代したそうじゃねえか。どんな調子だ、今度のは」

 間が空いた。

「……ああ、」

「ああ……、ってお前よぉ……」

「そういえばそうでした」

 あまりにもしばしば交代になるせいで個別認識していなかった。それに元々、プロセッサーはハンドラーの存在を意識しないものだ。

 それだけハンドラー達が職務放棄しているというのもあるし、一定数以上の阻電攪乱型(アインタークスフリーゲ)の展開下ではレーダーもデータ伝送も機能しないから、実のところ遠い国軍本部から指揮などほとんどできるものではない。だからプロセッサーはハンドラーなどあてにしないし、いてもいなくても気にしない。

 結局、ハンドラーの職務とはプロセッサーの監視、ただそれだけに尽きるのだ。どんな時でもどこにいても、望む時に言動の一切を監視できる知覚同調(パラレイド)という首輪を以てエイティシックスの反抗心を掣肘する、抑止力の役割が彼らに期待される役目の全てだ。

 この一週間の多くはないやり取りを思い出して、シンは口を開く。とりあえず。

「書類仕事が増えました。これからは哨戒報告書を都度捏造する必要があるようです」

「……読まれてねえからって、五年前にでっちあげた適当ぶっこいた報告書を毎回そのまま使い回すいい根性した野郎はおめぇくらいのもんだからな、シン」

 ちなみに日付も地名も何一つ変えていないし、その頃から哨戒などしてないから内容もでたらめだ。そんなものがこれまで一度もばれずに来たのだから、シンの方がむしろ呆れてしまう。

『誤って古いファイルを伝送していませんか』――と、穏やかに指摘してきた銀鈴の声を思い出して、シンは小さく嘆息した。意外と不注意なところもあるんですね、と屈託なく笑った、純粋な善意と親しみに満ちた声音も。

「着任当日に挨拶のために同調してきて、以降も交流を持ちたいからと毎日定時に連絡をしてきます。共和国軍人には珍しいタイプですね」

「まっとうな人間、てやつか。……そいつぁ、

さぞ生きづらいだろうな。気の毒に」

 まったく同感だったからシンもあえて返答はしなかった。

 正義も理想も、振りかざしたところでこの世界では何の力も持たないのだから――。

「……ん、」

 ふと、シンは何かに呼ばれたように春の草原の遥か向こうに目を向けた。

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