レーナがスピアヘッド戦隊のハンドラーに着任して、半月が経った。
その日の出撃も戦死者はいなくて、レーナはくつろいだ気分ですっかり日課となったプロセッサー達との知覚同調(パラレイド)を起動する。夕食の後の、夜の自室。
この半月、出撃回数は他隊よりずっと多いにも関わらず、スピアヘッド戦隊のプロセッサーに戦死者は出ていない。ベテラン揃いの精鋭部隊、というのは本当なのだろう。
「戦隊各位。今日もお疲れさまでした」
まず聞こえるごく微かな、遠い雑踏のような雑音。プロセッサー達が応じてくれれば、その声にもかき消されてしまう程度の、おそらくは格納庫の騒音か他の戦区の夜戦の音。
『お疲れさまです、ハンドラー・ワン』
最初に応じてくれるのはいつもアンダーテイカーだ。結局"死神"などという異名の片鱗さえも感じられたことのない、常に沈着で静穏な声。
他にも何人かの気配が同調先にあって、そのうちの数名が続けて挨拶をくれる。
言葉遣いはよくないけれど隊の良き兄貴分といった、戦隊副長ヴェアヴォルフ。
他愛ない話にも一番応じてくれる、律儀で実直なキルシュブリューテ。
剽軽なムードメーカーのブラックドッグ。
やわらかな声音をした、たおやかなスノウウィッチ。
少女じみた優しい声の割に言うことは結構辛辣なラフィングフォックス。
アンダーテイカーは最初の印象通り寡黙な性質のようで事務連絡以外ではあまり話さないが、どうやら毎晩同調に応じてくれる全員が彼の周りにいるらしい。同調していない隊員も同じ場所に何人かいるようで、慕われているのだろう。
「アンダーテイカー。まずは先日、要求の出ていた補充物資の納入日についてなのですが……」
ハンドラーとシンの事務的なやりとりを聞きながら、ライデンは拾ってきたクロスワードパズル誌に暇な夜の時間を潰す。
ぼろいバラックの隊舎の、シンの部屋。周りでは同じくこの部屋をたまり場にしている数人がそれぞれ好き勝手に過ごしている。セオがスケッチに没頭し、ハルトとカイエとクレナはカードゲームに興じていて、無闇に凝った模様のレースを編むアンジュと壊れたラジオの修理に勤しむダイヤ。食堂と別の部屋でもそこをたまり場にしている連中がいて、馬鹿騒ぎの声が遠くする。
戦隊長であるシンは報告書作成を含め幾らかの書類仕事があって、執務室を兼ねて隊舎の中では一番広い個室を使っている。そこにライデンが隊のあれこれの相談にいき、二人にちょっかいをかけに仲間達が顔をのぞかせて、そのうちたまり場の一つにされてしまった形だ。
部屋の主であるシン本人は読書のスペースが確保できれば他のことはどうでもいいらしく、猫を構っていようがチェスの果てにぎゃーぎゃー口喧嘩が勃発しようが目の前で腹踊りをしていようが(以前本当にクジョーとダイヤがやってみた)全く無頓着だ。今もハンドラーとの会話は片手間に、定位置である部屋の隅の古びたパイプベッドで枕をクッション代わりに寄りかかって、どこぞの図書館から持ち出した古い小説を黙々と読み進めている。胸元にはこれも毎晩の定位置の、ちんまり寝そべる白靴下の黒い仔猫。
まったく平和なもんだ、と、マグカップのコーヒーに口をつけた。代々レシピが受け継がれてきた、スピアヘッド戦隊伝統の代用コーヒー(エアザッツ・カフェ)。材料は隊舎裏で育てた蒲公英(ダンデリオン)だが、プラント合成の謎の風味の黒い粉で淹れた謎の液体などより遥かに旨い。
……ババアに飲ませてやったら、何て言うかな。
厳格で堅物で贅沢なんか一切しなくて、ただ唯一コーヒーには目がなかったあの老婆。
八五区内の生産プラントでも、嗜好品類の再現性は収容所や基地の合成食料と大差ない。
まるで泥水ねと毎朝嘆いていたあの老婆は今もまだ、不味い合成品を嘆いているのだろうか。
俺達のことをまだ、哀しんでくれているのだろうか。
鈴を振るようなハンドラーの声をまるで遮るように、仔猫が甲高い声でみゃー、と鳴く。
会話の合間にみゃー、と高い声が聞こえて、レーナは瞬く。
「猫……ですか?」
『あ、隊舎で飼ってんすよ』
応じたのはブラックドッグだ。
『ちなみに拾ったのは俺っす。ここに配属されたばっかの頃に、戦車砲喰らって吹っ飛んだ家の前でみーみー鳴いてて。親とか兄弟はぺっちゃんこだったんすけどこいつだけ無事で』
『で、何故かアンダーテイカーに一番懐いちゃったんだよね』
『全然じゃらしてもあげないし媚び媚びすりすりされてもおざなりに撫でてるだけなのにねえ』
『懐いてるっつうか、いいベッドだと思ってんじゃねえのか。今だってそうだろありゃ』
『ああ。読書中は動かないからな。ではブラックドッグには絶対馴れないな、うるさいから』
『ひでえ! てか理不尽だ! 改善を要求するぞー! ブーブー!』
じゃれあうプロセッサー達に、レーナはくすりと笑う。こうしていると、本当にごく普通の同年代の少年少女たちだ。この場にいないのが不思議なくらいに。
「名前はなんというのですか?」
微笑ましく問うと、同調している全員が答えた。ほとんど同時に。
『クロ』
『シロ』
『ニケ』
『チビ』
『キティ』
『レマルク』
『……だからその今読んでるのの著者名で呼ぶのいくらなんでも適当すぎるからやめてよっていうか、何読んでるんだよほんっと趣味悪いなあ……』
最後のラフィングフォックスだけ名前じゃなかった。
ともあれレーナは混乱する。
「ええと……。たくさんいるんですか……?」
『話聞いてたの。一匹だよ』
いよいよ混乱する。見かねたブラックドッグが助け船を出してくれた。
『足の先っちょだけ白い黒猫なんすよ。だから黒で白で二毛。そんで特に決まった名前とか付けてなくて、みんなそん時の気分で好きなよーにてきとーに呼ぶもんだから、最近そっち見て声かけりゃとりあえず寄ってくるようになってて』
なるほど。
「……でも、どうしてそんなことを?」
『……あー。……そりゃあ、』
少し言い淀んで、答えようとして。
不意にブラックドッグが同調を切った。
突然クレナが椅子を蹴飛ばすように立ち上がって出て行って、近くにいたからダイヤが追った。椅子が倒れるけたたましい音がした。
『……? あの、どうかしましたか?』
ダイヤの同調は切れていて、クレナは元々同調していない。とりあえずシンは適当に繕う。
「ああ。ネズミが出ただけです」
『ねずみっ!?』
「……適当すぎでしょ」
ぼそっと呟いたセオの声はハンドラーには届かなかったらしい。
ネズミが出るのですか……と、よっぽど苦手なのかこわごわと聞いてくる声に生返事を返しながら、シンはクレナの出て行った立てつけの悪い扉を見やって目を眇める。
廊下の端でダイヤが追いついて、クレナは己の内圧を下げるように短く強く息を吐く。
なんでみんな、あんなのと。
声を聞くだけで吐き気がする。むかむかして、居ても立ってもいられない。これまではこの夜のひとときはみんなと一緒に過ごせる折角の、居心地のいい大切な時間だったのに。
「クレナ、」
「なんでみんな、あんな女と」
「今だけだって。そのうちお姫さんの方から、繋いでなんか来なくなるさ」
常の剽軽さが嘘のような醒めた目で、ダイヤは肩をすくめる。これまでと同じだ。ハンドラーは誰も彼も、一度だってあの"死神"に耐えられない。
シンの異名の本当の由来を、あの少女はまだ知らない。たまたまそういう敵が傍にいなかっただけで、そんな幸運は長くは続かない。
普通の白い羊(レギオン)に紛れる、厄介な異端の黒い羊(ブラックシープ)。
そのつもりで名付けたはずのそれは、今では〈白羊〉より遥かに多い。
更に厄介な〈羊飼い〉さえも、また。
きりっとクレナは歯を軋らせる。わかってる。わかっているけれど。
「シン、あんなのとっとと壊しちゃえばいいのに」
ささくれ立った気分のまま、刺々しい声が出た。
「白ブタなんかに気つかってやることないのに。同調率だって最低に設定してやって」
「それが普通だからだろ。シンだって別に、好きで壊してるわけじゃねえだろし」
喧騒に支配される戦場で正しく意志疎通を図るために、知覚同調の同調率はごく至近距離、発言者の声を拾う程度の低い数値に設定するのが一般的だ。
静かにダイヤが問う。非難ではなく、ただ気遣わしげに。
「ていうかね。おまえそれシンに言える? 気に喰わないからおまえのそれで壊してくれって、あいつに言える?」
「……」
クレナは唇を噛んだ。ダイヤは正しい。失言だった。
シンは、隊のみんなは仲間で、家族だ。家族にそんな酷いことは絶対に言えない。
シンにはあれが日常だ。
それなのに。
「ごめん。……でも、やっぱり許せない。あいつらはパパとママを殺した。ゴミみたいに射的の的にした」
強制収容のための護送の夜だった。どこに当たるか、どこまでやれば死ぬかを賭けの対象にして、白系種(アルバ)の兵士どもは笑いながら両親を嬲り殺しにした。
七つ年上だった姉は収容後すぐに戦場に連れていかれて、今では十五のクレナより一つ下だ。
あの時クズどもを追い払って、血まみれになりながら両親の手当てをして、結局救えずにクレナと姉に詫びたのも、白系種(アルバ)の、白銀種(セレナ)の軍人だったけれど。
「白ブタはみんなクズよ。……絶対に許さない」
しばらくして二人は戻ってきて、その時にはネズミの話から前線特有の景色やエピソードの話に二転三転し、最終的に昔カイエが見た流星雨の話題になっていた。
視線を向けたライデンにダイヤは肩を一つすくめてラジオの修理に戻り、クレナはシンの傍らで床に座って仔猫を取り上げて構い始めた。本当は多分、仔猫を構いたいわけではなくて。
果たして、クレナ、と座り直してスペースを開けたシンが呼んでやると、案の定仔猫を抱えて従った。自分では気のないつもりの顔をして、随分距離をあけてベッドの端にちょこんと。
『――本当に? キルシュブリューテ。本当にそんなにたくさんの星が?』
「数えきれないくらいだったよ。二年くらい前だったかな、見ている端から幾つもの星がぼろぼろ空を墜ちていくんだ。空一面、光が流れて――それは見物だったよ」
キルシュブリューテ――カイエは、クレナが抜けた場にカードを配りながら頷く。
その流星雨ならライデンも見た。ただし敵も味方も壊滅した戦場のど真ん中、隣にいたのはシン一人で、おまけに揃って〈ジャガーノート〉がエナジー切れで、はぐれてしまっていたファイドが探し出してくれるまで身動きが取れなかったという色気もなければ笑えない状況でだ。
光を持ち込む人間がいないから、戦場の夜は暗い。深黒の闇、とはああいうのを言うのだろう。地上は一面闇に染まる中、天球を青白い焔の色の光があとからあとから流れて埋め尽くし、押しつぶされそうなほど荘厳なくせに一切の音もないその光景は、世界が砕けた破片が燃え尽きながら零れるような、この世の終わりの夜のような、そんな凄絶な美しさだった。
最後に見るのがこれなら悪くねぇかもな、とか、しかもシン相手に口走ったのは一生の汚点だ。鼻で笑いやがってあの馬鹿。
「あんなものはもう、二度と見られないだろうな……。流星群自体は毎年見られるものらしいけど、流星雨となると何十年かおきで、しかもあそこまでの数となると百年に一度もないらしい。……ああ、これは前にいたクジョー(シリウス)に聞いたんだけど」
『それは、残念ですね……。私も見てみたかったのですけれど』
「壁の中(そちら)では見られなかったのか?」
『一晩中、街の明かりが消えないので。こちらでは星なんていつも見えないんです』
「ああ」
カイエは微かに笑う。懐かしく。
「そういえば、そうだったかもしれないな……。こちらは夜は本当に真っ暗なんだ。人が少ないし場所も離れているし、寝る頃には灯火管制がかかる。だから、こちらは普段も星がきれいだ。満天の星とはこういうことだろうな。それは間違いなく、ここでの暮らしの良いところだ」
『……』
言い切ったカイエに、ハンドラーは沈黙した。予想だにしない答えだったのだろう。この世の地獄にいるはずのプロセッサーの口から、良かった、とは。
神妙な声音が問うてきた。
意を決して聞いてみた、という声だった。罵倒も糾弾も、受け止める責任が自分にはあるというような。
『キルシュブリューテ。……わたしたちを、恨んでいますか?』
カイエはしばし言い淀んだ。
「……それは、もちろん差別されるのは辛いし、悔しい。収容所での暮らしは辛かったし、戦うのはいつまでも怖いよ。だからそれをわたしたちに押しつけて、エイティシックスは人間じゃなくて家畜だから構わないとか言うような奴らのことは、やっぱり好きにはなれないな」
何か言いかけた――おそらく謝罪か自責を――ハンドラーを遮るようにしてカイエは続ける。言わせるつもりは流石になかった。
「けど、白系種(アルバ)の全員が全員、悪人じゃないというのもわかっているんだ。……エイティシックスの全員が、必ずしも善人ばかりじゃなかったのと同じように」
『え……』
カイエはふと、ほろ苦く口の端を歪めた。
「私は極東黒種(オリエンタ)だから。まあ、収容所でも以前の隊でも色々あったよ」
自分だけではない。アンジュもそうだし、……何も語らないけれどおそらくシンもだ。迫害者の血を引く白系種(アルバ)との混血や、強制収容の口実となった帝国系の、それも貴種の血統はエイティシックスたちの憤懣の捌け口となりやすかったし、共和国では極端な少数派である東方・南方系の民族も特に理由もなく同様だった。
エイティシックスとて無垢な被害者ばかりというわけではない。
世界はいつも、より数が少なくて、弱い者に冷たい。
「ともかく、同じように白系種(アルバ)にも良い人がいるのは、まあ私は見たことがないけど、仲間の何人かは知っているからわかっているんだ。だから、白系種(アルバ)というだけで恨んだりしない」
『そうだったのですか……では、その方々にわたしは感謝しないといけませんね』
カイエは少し、身を乗り出した。同調下でも、向き合って話しているような仕草はつい出る。
「私からも聞きたいな。どうしてそんなに、私たちのことを気にするんだ?」
ふと、焔のイメージが脳裏に忍び込んでシンは目を上げた。
火事にも火あぶりにも覚えはないから、これはハンドラーの記憶か。
『昔、貴方がたと同じプロセッサーの方に、助けていただいたことがありまして……』
レーナは思い出す。
『おれ達はこの国で生まれてこの国で育った、共和国市民だ』
『今は誰もそれを認めようとしないけれど、だからこそ、そのことをおれ達は証明しないといけない。国を護って戦うのは市民の義務で誇りだ。だからおれ達は戦うんだ』
助けてくれた、あの人の。その言葉に応えたいと思って、わたしは。
『自分は共和国の市民だと、証明するために戦うのだと仰っていました。その言葉に、わたし達は応えねばならないと考えます。戦えと求めておきながら見届けようとせず、あなたたちを知ろうともしないのは、それに反する振舞です。……赦されることではありません』
それは酷く綺麗な言葉で、ライデンはわずかに目を眇める。
カイエは小首を傾げて聞いていて、聞き終えてからも考えながら、口を開いた。
「ハンドラー・ワン。貴女は処女だな」
――ぶっ!?
ハンドラーがお茶か何かを噴くのが聞こえた。同調している全員が吹きだした。
同調していないクレナとハルトがきょとんとするのにアンジュが説明して、二人も笑い出す。
ハンドラーの少女はけほこほ咳き込んでいる。
カイエはそれらの反応にきょとんとしてから青くなる。
「……あっ! すまない間違えた! 処女みたいだな、だ!」
普通そこは間違わない。あとどっちでも大差ない。
ダイヤとハルトは笑死にしそうな勢いで机や壁をばんばん叩き(うるせえ! と向こうの方からキノの怒鳴り声がした)、珍しいことにシンまでくつくつと肩を震わせて笑っている。
カイエはひたすら慌てている。
「ええっと、つまりだな。世界はお花畑だと思っている女の子みたいというか、傷のついてない完璧な理想を抱いているというか、その、ともかく私が言いたかったのは」
ハンドラーは明らかに真っ赤になって硬直している。
「……貴女は、悪い人じゃない。だから、忠告するのだけれど」
なんとか気を落ち着けてカイエは言う。
「貴女はその役目に向いていない。ましてわたしたちになど関わってはいけない。わたしたちはそんな殊勝な理由で戦ってなどいないし、だから貴女がわたしたちに関わる必要もない。……誰かと代わった方がいい。後悔する前に」
悪い人じゃない、とカイエは言った。
良い人だ、とは言わなかった。
それが何故なのか、この時のレーナには、思い至ることができなかった。
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