86―エイティシックス―


 第二章 白骨戦線異状なし 《4》



 夜襲や夜間出撃任務が無ければ、夕食の後片づけから就寝までの数時間は自由時間だ。

 後片付けの終わった厨房で全員分のコーヒーを淹れてアンジュが戻ると、基地の全員が集まったままの格納庫前の広場は射的大会で大いに盛り上がっていた。

「ほい、クマ王様に一発ウサギ騎士二発。ハルト君の合計点数は七点であります!」

「あちゃー、二発外したか。やっぱりハンドガンっていまいち苦手なんだよなー」

「おーっと、ファイドから突然の挑戦です! 横に置く! 対するキノ選手の実力や如何に!」

「マジかよ……だー! 全っ然駄目じゃねえか! 次! 次の奴早く!」

「私か。えーと、……カイエ・タニヤ、推して参る!」

「ハイ二てーん」

「うおっ、五発全部命中。流石だなライデン」

「へっ、訳ねえよこんなん」

「きゃー生意気言いやがって。クレナ行け! 本物の神業って奴を見せてやれ!」

「おっけー見ててよ! ファイド、それ並べないで投げて!」

「「「うおぉぉおすげぇえええええ!」」」

「……って、なんか今日はファイドがサドいぞ。タワー型とかまた難易度上げてきた」

「シンー、お前の番」

「ん」

「……うわぁぁああ一発クリアかよ相変わらずかっわいくねえ……」

 今日の調理で出た大量の空缶を的にして、それぞれ携行の拳銃を用いて。点数代わりの可愛い動物のイラストをマジックでセオがさらさら書きつけ、各人の射撃の合間に撃ち落とされた缶を拾ってはファイドがタワーやらピラミッドやらに並べ直している。

 騒々しいその様子に、アンジュはくすりと微笑む。

 豪勢な夕食だった。捌いて豪快に炙り焼いた猪肉に森で馬鹿みたいに採れるスグリのソース、裏の畑の野菜サラダと缶詰のミルクとキノコのクリームスープ。食堂で食べる料理じゃないよなとテーブルを外に持ち出して、当番だけでは手が足りずに結局基地要員総がかりで調理して。

 楽しかった。それは皆も一緒だったと、こうして目の当たりにしてそれがとても嬉しい。

 自分が撃ち倒した空缶ががらがら崩れるのは見もせず、喧騒から少し離れて一人書物のページを繰っているシンの前に、コーヒーのマグカップを置いた。

「お疲れさま」

 ちらりと視線が返るのが返事の代わりだ。気づいて寄ってきたダイヤにコーヒー満載のトレイを預けて、アンジュは向かいの椅子を引いて座る。

 黙々と読み進めている分厚い書物に、目を留めて問うた。隊舎で飼っている白靴下の黒い仔猫が、ページにじゃれようと奮闘しているのが妙に微笑ましい。

「面白い?」

「別に」

 言ってから、自分でもあんまりな答えだと思ったのだろう。少し考える間をおいて続けた。

「他のことを考えてる間は、意識しないでいられるから」

「……そう、」

 淡く苦笑して、もう一度アンジュは言った。それだけは彼女達でも、代わってやることも分かち合うこともできないから。

「お疲れさま。いつも」

 じん、とレイドデバイスが熱を帯びた。

『戦隊各位。今、よろしいですか?』

 ハンドラーの少女の声が響く。着任から一週間、初日から欠かさず繰り返されている夕食後のひとときの交流の時間だ。

「問題ありません、ハンドラー・ワン。今日はお疲れ様でした」

 代表してシンが応じる。器用なことに目線は本に落としたまま、ページを繰ろうとするのをぺちっと仔猫に邪魔されて本を持ち上げていなす。

 盛り上がっていた隊員達が、そそくさと拳銃から初弾を抜いてホルスターに戻した。反乱防止のため、エイティシックスが小火器を持つのは禁じられているのだ。別に検査もされないので、どの戦隊も放棄された近在の軍施設から持ち出して使っているが。

『ええ、貴方たちもお疲れ様です、アンダーテイカー。……何か、ゲームでもしていましたか? 邪魔をしてしまったならすみません、続けてください』

「ただの時間潰しです。お気になさる必要はありません」

 話したくなければ、同調は切ってもらって構わない。初日にそう言われているのをいいことに早速同調を切った仲間達が図太く投げナイフ大会を始めるのを見ながらシンは言う。ライデンやセオ、カイエといった何人かは丁度来たコーヒーを楽しむ気になったのか、それぞれマグカップを手に手近の椅子やテーブルに腰を下ろした。

『そうですか? 何だかとても、楽しそうですよ。……ところで』

 ふと、ハンドラーは居ずまいを正したようだった。真っ直ぐに向けられる、生真面目そうな眼差しの気配。

『アンダーテイカー。今日は少し、お小言があります』

 上官の叱責というより優等生の学級委員長の注意といった口調の言葉に、シンは気にせずコーヒーに口をつけた。壁の向こうのハンドラーの言うことなど、一々真に受けても仕方ない。

「なんでしょうか」

『哨戒と戦闘の報告書。伝送ミスじゃなかったんですね。……読もうとしたら全部同じでした』

 シンはわずかに目を上げた。

「まさか、全て目を通したのですか?」

『あなたがスピアヘッド戦隊に配属されてからのものは』

「……お前、まだあれやってたのか」

 呆れを隠しもせずにライデンが言うのはとりあえず無視する。

「前線の様子など、そちらが知ってどうするのですか。無駄なことをしますね」

『〈レギオン〉の戦術や編成傾向の分析は、わたしたちハンドラーの職務の一つです』

 つんと言ってから、ハンドラーは少し語調を和らげた。

『読まれないから送らなかったのだということはわかりますし、それはこちらが悪いのですから怒りませんが、これからはきちんと作成してください。わたしは読みますから』

 面倒な。

 思ってシンは口を開く。

「読み書きは苦手なんです」

「お前さんほんといい根性してんのな」

 ダイヤがぼそっと呟いたのはやっぱり無視して、分厚い哲学書のページをめくる。

 もちろんハンドラーはこの場にいないからそんなことは分からない。幼少期に強制収容所に入れられた今のプロセッサーは、まともに初等教育も受けていないことに思い至ったのか、気まずげに口ごもる。

『あ……ごめんなさい。でも、それなら尚更、訓練だと思って書いてみてください。いつか必ず、役に立ちますから』

「どうだか」

『……』

 ハンドラーはあからさまにしょげかえった。別に字くらい読めるけどね、とばかりに鼻を鳴らしたセオがナイフを的に投げて、可愛らしい子ブタのお姫様が台の下に転げ落ちる。

 マグカップを両手で包んで持って、カイエが小首を傾げる。

「いや、役には立ってるだろう、アンダーテイカー。何しろ趣味は読書なわけだし……今だって、それは哲学書か? 随分小難しそうじゃないか」

 同調の向こうで、何やらものすさまじい沈黙が降りた。

 ハンドラーが言う。これまでどおり柔らかな響きの、おそらく微笑さえ浮かべているだろうに、何故か異様な迫力を帯びた声で。

『アンダーテイカー?』

「……………………わかりました」

『これまでのものも送ってくださいね? 戦闘報告書も。全部』

「……ミッションレコーダーのデータファイルでいいですか」

『駄目です。書いてください』

 ついシンは舌打ちし、おずおずと様子を伺っていたカイエがびくっとポニーテールを揺らした。ぱちんと両手を合わせて勢いよく頭を下げるのに、お前にじゃないと片手を振る。

 まったく……、とため息をついて、ふとハンドラーはそもそもの未送信の原因を思い出したらしい。腹立ちを収めた、ひたすらに真摯な声音で続ける。

『分析ができれば、対策が取れます。精鋭の貴方がたの戦闘記録なら尚更に。全戦線の損耗率が下げられますし、それは貴方がたにもそうなのですから、どうか協力してください』

「……」

 シンは応えず、ハンドラーの少女はもの哀しげに沈黙する。プロセッサーがハンドラーを信用しない原因が、全てハンドラー側にあることを自覚しているのだろう。

 それから気詰まりな雰囲気を打開しようと思ったか、務めて明るい声を出した。

『そういえば、文書の日付が随分前のものでしたが、どなたかから引き継いだのですか? それとも、もしかしてその頃から?』

「あァ。こいつのこれは最初っからだぜ、ハンドラー・ワン。俺が会う前からずっとやってる」

 からかう口調に、ライデンが乗ってやった。ハンドラーがきょとんと瞬く気配。

『ヴェアヴォルフは、アンダーテイカーとは以前からのお知り合いなのですか?』

 カイエが肩をすくめる。

「というか大半がそうかな。例えばダイヤ(ブラックドック)とアンジュ(スノウウィッチ)は入隊以来同じ隊だし、私はハルト(ファルケ)と一年一緒だ。セオ(ラフィングフォックス)とクレナ(ガンスリンガー)は一昨年からシン(アンダーテイカー)とライデン(ヴェアヴォルフ)の隊にいて、……たしか二人も、会ってからは二年くらいになるんだったか?」

「三年だ」

ライデンが答え、ハンドラーがひととき沈黙した。

『……従軍してもう、どれくらいになるのですか……?』

「みんな四年目、というところかな。ああ、アンダーテイカーは一番長くて、今年五年目だ」

 ハンドラーの声が弾む。

『では、アンダーテイカーは任期満了まであと少しですね。……退役したら、何かやりたいことはありますか? 行きたいところや、見たいものとか』

 全員の視線がシンに集まった。やはり本から目も上げないまま、身も蓋もなくシンは答える。

「さあ。考えたこともありませんね」

『そう、ですか……。……でも、今から考えておいてもいいかと思いますよ。何か思いつくかもしれませんし、きっと、楽しいと思います』

 ふっとシンは微かに笑った。うとうとしていた仔猫が、ぴょこんと両耳を立てて振り仰いだ。

「そうかもしれませんね」

こちらのハッシュタグをつけて感想をツイートしよう!