それから程なく〈レギオン〉部隊は全滅した。撤退したのではなく文字通り全滅させられた。
それは残ったプロセッサー達の意志のように感じられて、レーナは胸が痛む。
一昨日、つい一昨日の流星雨の話と誇り高い言葉が蘇って、どっと後悔が押し寄せた。
もし、もっと早くこの地図を見つけていたら。
もし、警告が間に合っていたら。
「状況終了。――戦隊各位、お疲れ様でした」
『……』
応じる声はない。みな、それぞれに悲しんでいるのだろう。
「キルシュブリューテのことは……残念でした。わたしがもっと、しっかりしていれば……」
瞬間。
そら恐ろしい沈黙が、同調の向こうに満ちた気がした。
『……残念?』
ラフィングフォックスが問い返す。爆発寸前の何かを無理矢理押さえ込んで、静かなくせにどこか軋むような声だった。
『何が残念? あんたにしてみればエイティシックスの一匹二匹、どう死のうが家に帰ったらすっかり忘れて夕食楽しめる程度の話だろ? しおらしい声作って、空々しいんだよ』
何を言われたのか、一瞬本当にわからなかった。
咄嗟に言葉の出ないレーナを何と思ったか、あのさあ、とため息交じりにラフィングフォックスは続ける。今度は敵意を隠しもしない、あからさまな険の混じる声音で。
『そりゃあこっちだって暇だったからさ、あんたが自分だけは差別とかしません豚扱いしません高潔で善良で正義なんですって勘違いの聖女気分楽しみたいのに、そういうどうでもいい時ならつきあってもやるよ。けどさ、空気読んでよ。こっちはたった今仲間が死んだんだ。そういう時まであんたの偽善につきあってなんかいられないって、それくらいわかれよ』
「ぎ――」
偽善?
『それとも何? 仲間が死んでも、何とも思ってないとか思ってる? ――ああそうかもね、あんたにとって所詮エイティシックスはエイティシックス、あんたみたいな高尚な人間さまとは違う人間以下の豚だものね!』
「ち……」
思いもよらない言葉を浴びせられて、頭の中が真っ白になった。
「違います! わたしはそんな……!」
『違う? 何が違うんだよ。僕達を戦場に放り出して兵器扱いして戦わせて、自分だけ壁の中でぬくぬく高みの見物決め込んで、それを平気な顔で享受してる今のあんたのその状態が、エイティシックス(ブタ)扱いじゃなくてじゃあ一体何だっていうんだよ!?』
「っ……」
同調を介して伝わる、プロセッサー達の感情は。
何人かは無関心で、その他の者はラフィングフォックスを含め、程度の差はあれど冷たい目を向けてきているようなそれだった。敵意や、軽蔑、あるいは諦念。そういう、冷たい。
『エイティシックスって呼んだことはない? 呼んだことがないだけだろ! 何が国を守るのは市民の誇りで、何がそれに応えなきゃならないだよ。僕達が望んで戦ってるとでも思ってるのか? あんたたちが、閉じ込めて! 戦えって強制して! この九年何百万人も死なせてるんだろ!? それを止めもしないで、ただ毎日優しく話しかけてやればそれで人間扱いしてやれてるだなんてよく思えるな! そもそもあんた、』
そうして、ラフィングフォックスは一片の容赦もなくそれを抉りだして突きつけた。
人間として、接していると思っていた。それだけはしているつもりだった、レーナの決定的な家畜(豚)扱いのその証拠を。
『僕達の名前さえ、一回だって訊いたことがないじゃないか!』
息が、詰まった。
「あ…………」
思い返し、茫然となった。その通りだった。知らない。聞かなかった。誰の名前も、必ず最初に応えてくれるアンダーテイカーも、一番話に応じてくれたキルシュブリューテの名前さえ。勿論自分の名だって名乗っていない。ハンドラー・ワン。彼らの管理者で監視者という役職名だけで、平然と通して。
合意の上ならともかく、そうでないなら同じ人間を相手に、許されることではない非礼だ。
そんなことを、平気で。自覚一つなく行っていた。
家畜は家畜なりの扱いをするべきなの。
そう、平然と言い放った母親と、これまでの自分の振舞に。言葉に出していなかったという以外に、一体何の違いが――。
がくがくと、総身が震えた。ぼろぼろ涙が零れて、言葉なんか何も出ないくせにみっともない嗚咽が漏れそうになるのを両手で口元を押さえて堪えた。自覚していないだけだった、誰かを踏みつけて見下して、それを当然として恥じいりもしない自分自身の醜さが恐ろしかった。
ヴェアヴォルフが、――違う、今までそう呼んでいた、名前も顔さえも知らない有色種(コロラータ)の少年が――低く口を挟んだ。
『セオ』
『ライデン! こんな白ブタ、庇ってやること――!』
『セーオ』
『っ……わかったよ』
舌打ちが一つ。ぶつん、とラフィングフォックスの気配自体が同調から消える。
内心の感情をそれで吐き出してしまおうとするような嘆息を長く吐いて、ヴェアヴォルフがこちらに意識を向ける。
『ハンドラー・ワン。同調切ってくれ』
「……ヴェアヴォルフ、あの、」
『戦闘は終わった。もう管制してる義務もねえだろ。……ラフィングフォックスは言いすぎだが、だからって俺たちもあんたと仲良くおしゃべりしたい気分でもねえんだ』
声音は冷たいが糾弾の響きのないその口調は、レーナにはむしろより酷薄に感じられた。
非礼を咎めない。責めもしないのは、諦めているから。何を言ってやってもどうせ聞き入れない、言葉を話すふりをしているだけで誰の言葉も聞かなければ受け入れもしない、自分の発した言葉の意味さえ本当は理解できていない人の形をした豚だと、諦められているからだ。
「……ごめんなさい」
震える声で辛うじて応え、一拍おいてから同調を切った。返る言葉は、誰からもなかった。
ハンドラーとの同調は仲間たちとのそれごと切って、セオはひどく気分が悪い。
ややあって、アンジュが繋いできた。
『セオ君』
「……わかってるよ」
ぶすくれた声が出た。
酷く子供じみたその響きが嫌で、セオは苛々と唇を突きだす。
『気持ちはわかるけど、言いすぎよ。いくら本当のことでも、ああいう言い方はよくないわ』
「わかってる。……ごめん」
わかっていたのだ。そうあってはいけないとみんなで決めて、それはそうやって言葉にされる前から自然と理解できていたことだったから、ずっとこれまで守ってきたのに。
言いたいことはそのまま全て、思いつく一番きつい言葉で叩きつけてやって、でも、気持ちは収まるどころか余計腹立たしくてささくれ立って嫌な気分だ。怒りを向ける謂れはない、かけがえのない仲間達にも咄嗟に噛みついてしまうほどに。
破ってしまった。大切な約束だったのに、あんな、白ブタなんかのために。
それでも我慢できなかったのは、きっと。
『……隊長さんのこと?』
「……ああ」
思い出す、大きな背。
十二歳で入隊して、最初に配属された部隊の隊長だった。
陽気で快活で、部隊中から嫌われていた。セオもその時は大嫌いだった。
笑う狐のパーソナルマークは彼から継いだ。隊長の〈ジャガーノート〉のキャノピの下で陽気に笑っていた狐は、あの頃絵なんて描いたこともなかったセオの腕では、何度描き直しても口角をねじ上げるように嗤う底意地の悪い狐のデフォルメにしかならなくて。
その、彼とまるで同じであるかのような顔をして、聖女気取りの白ブタが善良ぶってカイエの死を嘆いてみせたのが、セオは許せなかった。
許せなくて、でも、それでやってしまったのは結局は。
「……ごめん、カイエ」
燃え尽きた〈キルシュブリューテ〉の残骸を見やって目を伏せた。墓を作ってやることも、連れて帰ってやることすらできない、とうに見慣れてしまった仲間の遺体。
「ブタと同じ真似をして、君の死を穢した」
色々なことがあったろうに。最期まで恨み言の一言も口にしなかった、誇り高い君を。
誰かが死んだ日の夜は隊員達は一人、あるいは誰かと共にそれぞれのやり方でその死を悼んで、だからこの夜、シンの部屋を訪れる者はいない。
月と星の明りで必要がないから電灯は消した自室の、冷たく青い光の差し込むデスクに掛けて緩く瞑目していたシンは、控えめに響いた窓硝子を叩く音にその血赤の目を開いた。
隊舎の外の窓の下、佇むファイドが二階のここまでクレーンアームを伸ばして、先端のマニピュレーターに摘まんだ数センチほどの薄い金属片を差し出す。
「ありがとう」
「ぴ」
受け取ると、ファイドは一度光学センサを瞬かせてからがしゃがしゃと踵を返した。コンテナに満載した残骸を自動工場の再生炉に運ぶ、〈スカベンジャー〉の本来の役目。
あらかじめ広げておいた布の上に金属片を置いたところで、知覚同調(パラレイド)が起動した。
簡単な工具類を入れた布包みを解こうとした手を一瞬だけ止め、シンは眉を顰める。同調の対象はシン一人で、相手はこの基地にいる人員の誰でもない。
『…………』
向こうから繋いできたというのにそのまま相手が何も言わないので、一つ嘆息してシンは口を開いた。同調の向こうの、悄然とした気配。
「何かご用でしょうか。ハンドラー・ワン」
びくっと肩を震わせるように気配が揺れて、それきりまた、何も言わない。逡巡しているらしい沈黙に、シンは何の関心もなく相手が言葉を発するのを待った。
中断していた作業を再開して随分経ってから、ようやくハンドラーの少女はおずおずと口を開いた。手ひどく撥ねつけられるのを予期しながらおそるおそるかけてくるようなか細い声で、シンは今度は手を止めなかった。
『……あの、』
拒絶されたら、大人しく切ろうと思っていた。
その覚悟でいたから、これまでと同じ静かな声を向けられて、レーナはむしろ怖気づく。
何度も息を整えて次は言おうと心を決めて、何度目かでようやく声が出る。
「……あの、アンダーテイカー。今、よろしいでしょうか……?」
『ええ。どうぞ』
静かで穏やかで、感情の響きのまるで無い声が淡々と応じた。
それはやはり今までと何も変わらない声音と口調で、それらは沈着な性情ゆえではなく、こちらに何の関心もないからなのだと初めて気づいた。
また臆病に縮こまりそうになる心を叱咤して、深々と頭を下げた。
多分これも、ほんとうは卑怯だ。
本当は最初から、全員に言うべきだ。けれどきっとまだ繋いでくれないだろうラフィングフォックスやヴェアヴォルフに、そうとわかって同調を試みる勇気はなくて。
「ごめんなさい。昼間のことも、これまでのことも。本当にすみませんでした。……あの、」
きゅ、と膝に置いた両手をきつく握りしめた。
「わたしは、レーナ。ヴラディレーナ・ミリーゼと、言います。こんな、今更ですけれども、……あなたたちの名前を、教えていただけませんか……?」
しばらく、間が空いた。
レーナには怖ろしいような沈黙だった。遠い、ささやかな雑音と、それを際立たせる無言。
『……ラフィングフォックスの言ったことを気にされているのでしたら、』
無関心な声だった。そっけなく、突き放した、ただ事実を言っているだけというような。
『それは不要です。別にあれが我々の総意というわけではありません。この現状を貴女が作りだしたのでもなければ、貴女一人の力で撤回できるものでもないということはわかっています。貴女には不可能なことを、しなかったと責められたからといって気に病む必要はありません』
「でも、……名前も知ろうとしなかったのは私の非礼です」
『それも必要がないからでしょう。何故〈レギオン〉には傍受できない知覚同調下で識別符号(コールサイン)の使用が義務付けられ、プロセッサーの人事ファイルも開示されないのだと思いますか?』
レーナは唇を引き結んだ。およそ愉快ならざるその答えは容易に想像がついた。
「ハンドラーが、プロセッサーを人間と考えずにすむように、ですね」
『ええ。大概のプロセッサーは一年も経たないうちに死ぬ。その大量の死をハンドラー一人が負うのは負担が過ぎると、そう考えたのでしょう』
「それは卑怯です! わたしは、」
気づいて声がしぼんだ。
「わたしも、卑怯でした。……卑怯なままでいたくない。わたしに名乗るのが嫌だというのでなければ、……どうか、教えていただけませんか」
存外に頑ななハンドラーの少女に、シンは再び嘆息する。
「……今日戦死したキルシュブリューテは、カイエ・タニヤという名です」
『!』
ぱっと同調の向こうで嬉しそうな感情が湧き、ついでそれが今日死んだばかりの少女の名だと思い至ってかすぐに自制された。対照的に淡々と、シンは仲間達の名を告げていく。
「副長のヴェアヴォルフが、ライデン・シュガ。ラフィングフォックス、セオト・リッカ。スノウウィッチ、アンジュ・エマ。ガンスリンガー、クレナ・ククミラ。ブラックドッグ、ダイヤ・イルマ――」
二〇名全員の名を伝え終えて、最後にハンドラーが締めくくった。
『わたしはヴラディレーナ・ミリーゼです。どうぞ、レーナと』
「先程承っています。……階級は」
『あ……そうでしたね。少佐です。まだ、なりたてですけれど、』
「では、以後ミリーゼ少佐とお呼びいたします。よろしいでしょうか」
『……もう』
あくまで上官として接しようとするシンに、レーナは苦笑したようだった。
それからふと、訊いてきた。
『今日は、誰もいないようですが。……何をしているのですか?』
いっとき、シンは沈黙した。
「――名前を、」
『え?』
「カイエの名前を、遺しています。……おれたちエイティシックスには、墓がありませんので」
小さな金属片を、青く透ける月光にかざした。薄い長方形のアルミ合金に、工具で刻んだカイエのフルネームと、塗料の薄紅色と黒々と走る文字の一部。五弁の桜の上から彼女の民族の文字で『桜花』(キルシュブリューテ)と書いたそれは、カイエの〈ジャガーノート〉のパーソナルマークだ。
「最初の部隊で、他の奴らと約束をしたんです。死んだ奴の名前をそいつの機体の破片に刻んで、生き残った奴が持っていよう。そうやって最後まで生き残った奴が、そいつの行きつく場所まで全員を連れて行こう、と」
実際にはその頃は、戦死者の機体片さえ回収できないことの方が多かった。ありあわせの金属片や木片に釘で掻いて名前を刻んで、それだけがそいつの存在した証だった。
ほぼ確実に機体片を入手できるようになったのは、ファイドがそれを覚えてからだ。可能な限りキャノピのすぐ下、パーソナルマークの描かれた装甲表面の一部を切り取ってくるのも。
それらは全て、まとめて〈アンダーテイカー〉のコクピットの備品入れにおいてある。最初の部隊の隊員達と、それからの全員。その彼らと交わした約束を果たすため。
「その時はおれが最後で、今までずっとそうでした。だから、おれは連れて行かないといけないんです。おれと共に戦って死んだ全員を、おれが行き着くところまで」
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