「……………………は?」
目を開けた。
ひんやりする手が水無月の温かい手を包んでいる。間の抜けた声を洩らした水無月の目に、少年の手を触って嬉しそうにはしゃぐ吸血鬼が映る。
「この体温、やっぱり人間だったわ! 銃も使わず暴走オートマタを倒すなんてヴァンパイアかと思ったけど、妙にそそられたのよね。ヴァンパイアの直感っていうのかしら。全然鍛えてないように見えて、すごく強いのね。あなたみたいな人間は初めて見たわ!」
「……」
視界の端では、カノンが胸に手を当てて深く息をついていた。
つまり、この王女様は水無月が人間か吸血鬼かで迷っていたのだ。サーモグラフィを備えている水無月と違って、普通は触れるまで両者の区別はつかない。少女の頭には人間か吸血鬼かの二択しかなかったようで、オートマタの可能性を疑われたと思ったのは水無月の早とちりだったのだ。
覚悟まで決めたのがバカみたいだ。腹立たしくなって水無月は吸血鬼の手を乱暴に振り払う。
「俺が人間かどうか確かめるためにおまえは転校してきたのか。ご苦労なことだな」
「あら、もちろんそれだけじゃないわ。あなた、名前は?」
「ミナヅキ=ザンデルホルツ」
「そう。なら、ミナヅキ。わたくしに血を捧げなさい」
周囲がしん、と静まり返った。
登校してきたばかりの生徒たちの賑やかな声が反響してくる。
大勢の視線を一身に集めても、少女は何ら臆することなく勝ち気な微笑を浮かべていた。胸を張って水無月の答えを待っている。
水無月はそんな少女を真正面から見返し、言った。
「――断る」
少女の頬がピクっと動いた。
話は終わったとばかりに水無月は歩き出す。石になったみたいに微動だにしない吸血鬼の脇を抜けたとき、カノンがやってきてヒソヒソと囁いてくる。
「み、水無月! 今の、どういう意味だかわかってるの!?」
「わかっている。吸血鬼流の愛の告白だろう? どうやらあいつは俺と交際したいらしい」
人間と吸血鬼が平等なヘルヴァイツでは、合意なしの吸血行為は違法である。また、人間は吸血鬼の〈魅了〉を恐れ、恋人くらい親しくないと吸血を許さない。それが「吸血したい」イコール「付き合って」になるのだ。
……というのを、カノンに無理やり鑑賞させられた恋愛映画で最近知ったばかりである。カノンは時折、自分の趣味を押しつけてくるのだ。
「わかってるなら、さっきの言い方はひどい。もっと相手を思いやった断り方をしないと」
「ふん。なら、何と言えばよかったんだ?」
「えーっと、例えば『気持ちはとても嬉しいけど、今は誰とも交際することは考えていない』とか……?」
「内緒話のつもりかしら! 全部聞こえてるわよ!」
割り込んできた声に水無月とカノンが目を向ける。
そこにはわなわなと全身を震わせる吸血鬼少女がいた。彼女は引きつった顔で水無月を見つめている。
「そういえば、名乗るのをすっかり忘れていたわ。わたくしは吸血鬼王ローゼンベルクの第三王女、リタ=ローゼンベルクよ。国軍特別機動部隊《赤の乙女部隊》の紅薔薇少将とも言われているわ。その上で、ミナヅキ、わたくしに血を捧げなさい」
「キモチハトテモウレシイケド……」
「わたくしをバカにしているの!?」
棒読みでカノンの例えを返す水無月に少女は大噴火した。怒りで顔を真っ赤にすると、噛みつきそうな勢いで水無月に迫る。
「断るとはいい度胸ね、ミナヅキ。だけど、あなたに拒否権はないのよ。わたくしはあなたの意志を訊いているのではなく、命令しているの。あなたのすべてをわたくしに捧げなさい、とね」
吸血鬼に血を吸われるとはそういうことだ。血だけではなく、身も心もすべて吸血鬼に委ねることになる。そうできる力が吸血鬼にはある。
「あなたはわたくしのものになれるのを光栄に思って、素直に身を委ねればいいだけ。心配しなくても悪いようにはしないわ。わたくしと交際できるのだから、あなたにとってもおいしい話でしょう?」
誘うようにリタは水無月へ身体を寄せる。大きく開けたブラウスの胸元からは魅惑の谷間が覗き、健全な男子なら間違いなく目が離せなくなるのだが――絡繰少年はそんな絶景に目もくれなかった。
「おまえのものになるとか、勘弁してくれ。想像しただけで気が狂いそうだ」
「なっ……!」
吐き捨てるように言った水無月に、リタが驚愕する。
「王女だか少将だか知らないが、俺はおまえの命令なぞ聞き入れない。大方、戦闘能力の高い俺を〈魅了〉して奴隷にしたくなったんだろう。交際なんて建前だ」
水無月は戦時中の吸血鬼を知っている。
彼らは支配した街で人間をことごとく吸血し〈魅了〉した。そうして操った人間を奴隷として働かせたり、兵士として前線へ送ってきたりしたのだ。
吸血鬼は〈魅了〉することを考え、優れた人間を好んで吸血する。それが彼らの習性だ。
凝然とするリタの耳元で、水無月は冷徹に囁いた。
「心臓を抉られたくなかったら今すぐ失せろ、吸血鬼。俺はおまえの玩具にはならない」
ぴし、とその場の空気が音を立てたようだった。
リタの表情が消える。
嵐の前の静けさを彷彿とさせるリタの沈黙に、ギャラリーの何人かが身震いするのが見て取れた。
「……そう、それがあなたの答えというわけね、ミナヅキ」
リタはことさら静かに言う。
だが、こっちを見上げた紅い双眸は好戦的にギラついていた。
「上等だわ! 心臓を抉るですって? やれるものならやってみなさい。あなたに勝負を申し込むわ。そこで決着をつけましょう!」
リタの言葉に火がついたみたいに周囲が騒然となる。
慌ててカノンが水無月の腕を引いた。
「いけない、水無月。勝負なんてしちゃダメ。今すぐ王女様に無礼な言葉を謝って!」
「あら、謝罪してしまうの? つまらないけれど、それでもいいわ。当然、償いとして血はもらえるのよね?」
「わっ、わたしの血をあげます! だから、どうか水無月の血は……!」
リタがじろりとカノンを見た。それだけでカノンは蛇に睨まれたカエルのように竦んでしまう。
「あなたで代用がきくわけないじゃない。わたくしはミナヅキの血が欲しいの。ミナヅキと触れ合って、彼から直に吸血がしたいのよ」
カノンが目に見えて青くなる。リタは水無月を見つめ、妖艶に微笑んだ。その口元から鋭い二本の八重歯が覗く。
「必ずわたくしのものにするわ、ミナヅキ。もう逃がさない」
< 前へ|・・・|9|10|11|12|13|14|15|・・・|次へ >