ややあってカノンは口を開く。
「……水無月」
「何だ?」
「気付いてたよね、水」
 カノンが非難たっぷりに水無月を睨み上げる。水無月は悪びれずに答えた。
「無論、気付いていた。落下してくる水を俺は視認している」
「だったらなんで教えてくれないの。ずぶ濡れなんだけど!」
「問題ない。時間が経てば水は乾く。危険なものではない」
「ああ、もう、気がきかないんだから」
 嘆いたカノンは回れ右をする。
「帰る方向が違うぞ?」
「こんなビショビショのままで帰れない。ジャージに着替えてくるから待ってて!」
 そう言うカノンの制服はしっかり濡れていて、白いブラウスは透けて薄い胸にぺったり張りついている。
 水を滴らせて校舎へ駆けていく後ろ姿を水無月は見送った。
 別に気がきかないわけじゃない。単にカノンを助ける気がないだけだ。
 水無月はカノンが気に入らない。
 いくら周囲から何を言われ何をされようとも、彼女は決して反論したり立ち向かったりしない。貝のように口を閉ざし、されるがままになる。まるでそうすることが贖罪であるかのように。
 春海の作った《白檀式》が暴走して多くの人間を殺したのは事実だ。カノンは春海の娘であることに負い目を感じているのだろう。
 だが、《白檀式》の暴走に関してカノンにどれだけの責任があるというのか。こんな嫌がらせをされて黙っている謂われなどない、と水無月は思う。
 きっと彼女は諦めているのだ。母が侮辱されるのも、自分が虐げられるのも、悔しくも何ともないのだろう。反抗しないのはそういうことだ。母と《白檀式》の非を周囲から言われるがままに受け入れ、世間と戦うことを放棄するカノンの姿勢が水無月には理解しがたいし腹立たしい。
 傾いた太陽が水無月の影を長く伸ばす。
 下校する生徒たちの喧騒が響く中、無気力な絡繰少年は一人、それを眺めていた。


「問題は、高校生オートマタコンテストは三人一チームでしか出場できないの」
 ジャージに着替えてきたカノンは、帰る道すがらそう言った。
 彼女は雑貨店で急遽買ったタオルで髪を拭いている。標高が高いヘルヴァイツでは、十月下旬に初雪が見られるほどだ。髪が濡れていれば間違いなく風邪を引く。
 わしゃわしゃとタオルで頭を拭いたカノンは、今度は忙しく手櫛で髪を梳き始めた。カバンから手鏡を出して白銀を整えながら言う。
「コンテストに出るなら、わたしと水無月の他にもう一人、協力してオートマタを作ってくれる生徒を探さないと」
「いつ俺が協力すると言った?」
「手伝ってくれたっていいはず。優勝したら賞金が出るって知ってる? そうしたら水無月の部品を新しくできるんだよ」
 手鏡を仕舞ったカノンは、藍色の瞳にふっと異様な光を灯す。
「……どこを新しくしようかな、ふふ。まず、人工皮膚をスベスベお肌にグレードアップして、女の子用の黒目が一回り大きい人工眼球にして、髪の毛もいろんな髪型ができるように長くして、ふふふふふ……」
 明らかに危ない雰囲気を放つ少女に、水無月は焦って叫ぶ。
「やめろやめろやめろ! 今、意地でも協力しないと決めた!」
「むぅ、じゃあ何だったら水無月は協力してくれるの?」
「決まっている。人工筋肉を最新モデルにしろ。いつまで俺に十年前の旧型人工筋肉をつけておくつもりだ?」
「えー、気乗りしない。そんな可愛くないグレードアップ」
「おまえは俺を何用と思ってるんだ! 可愛くなんかするな! とにかく強くしろ! でなければ、おまえに協力はしない」
「仕方ない。水無月のやる気を優先して、賞金は人工筋肉の購入費に充てるということで」
 捕らぬ狸の皮算用に決着がついたところで、カノンはそっと息をついた。一転して真摯な表情になると、少女は口を開く。
「わたしはコンテストの作品に波動歯車を使いたいと思っている。マイヤー先生はそれをやめさせたいみたいだけど、わたしの気持ちは変わらない。作るなら、お母さんの設計図から学んだ波動歯車がいい」
 春海との関係性は隠しているものの、入学早々、カノンはオートマタ工学の授業で波動歯車を使った設計図を披露してしまったのだ。それを機にクラスメートからのイジメが始まったが、カノンはまだ頑としてそれに拘っている。
 歯車とは、ゼンマイに直結してオートマタを動かす重要な部品である。歯車がなければオートマタは指一本動かせない。
「だけど、世間は波動歯車を認めてくれない。クラスみんなの態度を見ればわかるよね。波動歯車が使われていたら、それは虐殺オートマタと言われる。それを作った人は虐殺技師と非難される。コンテストでわたしに協力してくれる生徒が見つかるとは思えないの」
《白檀式》に使われていたことで、波動歯車は人類を滅ぼしかねない危険な歯車の代名詞になってしまった。波動歯車は使わない、作らない、取引しない。それが現在のオートマタ業界の風潮なのだ。
 ヘルヴァイツの人々にとってオートマタは身近であるが故に、彼らはケルナーの悲劇が再び繰り返されるのを何よりも恐れている。
 波動歯車イコール虐殺、という世間一般の図式が変わらなければ、カノンに協力する生徒は現れないだろう。
 最新の人工筋肉搭載はどうやら無理そうだな、と水無月が肩を竦めたとき。
 バアァン、と衝撃音がした。
 すぐ横の工事現場からだ。水無月とカノンが首を回すと、何十体もの工事用オートマタが作業しているのが見えた。けれど、どうも様子がおかしい。
「何だ、あれは? 最近の工事は鉄骨を振り回すのか?」
「そんな工事あるわけない。あれはただ暴走してるだけ」
 二人が会話している間も、オートマタたちは鉄骨を地面に叩きつけたり、資材を放り投げたりしている。
 工事現場の隅では、拡声器を持った男性がひたすら「オーダー、止まれ!」と繰り返していた。おそらく現場の監督者で、あのオートマタたちの所有者登録をしているのだろう。しかし、彼らは強制命令を聞かず止まらない。
 匙を投げた監督者は拡声器を放り、逃げ出した。
 通行人が「オートマタの暴走だ! 軍を呼べ!」と叫ぶ。
 カノンが水無月の腕を引いた。
「早く行こう、水無月。近くにいると危ない」
「……あれなら戦ってもいいよな」
 カノンの手を払い、水無月は呟いていた。
「え?」
 ぎょっとしたようにカノンがこっちを見る。だが、水無月は暴れるオートマタから目を離せないでいた。
 オートマタは古くなれば暴走するものだ。そして、暴走した時点で彼らは破壊される運命にある。人に害をなすものとして、民間人の手に負えなければ共和国軍が出動して、彼らは徹底的に壊されるのだ。
 ――つまり、『敵』と同じだ。
 そう思った瞬間、衝動が駆け巡る。水無月は持っていたカバンを置いた。
「暴走オートマタを止めてくる」
「何言って――水無月!? ダメ! 待って!」
「問題ない。どうせ壊すんだろ!」
 後ろで叫ぶカノンを無視し、水無月は工事現場へ走り出していた。

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