「はあ、なんとか始業に間に合った……」
清掃用オートマタに回収される寸前だったチケットを拾い、カノンと水無月は無事に学校へ着いていた。
国立ハイデン高等学院。ヘルヴァイツでも三本の指に入る名門高校で、優秀なオートマタ技師を何人も輩出している。二か月前、カノンに無理やり入学試験を受けさせられ、今秋から水無月は彼女と一緒にこの学校へ入学していた。
立派な門柱では、警備用オートマタが笑顔で「おはようございます」と繰り返している。それに「今日もいい天気ですね」などと話しかける生徒はいない。世間一般のオートマタは決められた台詞しか言えず、自由に会話できないからだ。
水無月やカノンと同じ制服を着た生徒たちが続々と校舎へ入っていく。その中、周囲にいくつもの『敵』を発見して、水無月はわずかに目を細めた。
隣を歩くカノンがそれを察し、じろりと見上げてくる。
「水無月、今、何考えてるの?」
「二時の方向に敵一体、七時の方向に敵四体、九時の方向に敵二体……」
「水無月」
「問題ない。半径十メートル以内の敵は五秒で抹殺する」
「水無月」
制服を掴まれた。
カノンが立ち止まり、水無月も足を止める。と、少女がぐっと顔を寄せた。頬と頬が触れそうな距離でカノンは囁く。
「そんなことしたらダメって、いつも言ってるよね!? ここは戦場じゃないの!」
「問題ない。これは脳内シミュレーションだ」
「問題ある! もう敵はいないの。戦争はとっくに終わったのよ!」
水無月は間近のカノンを見下ろした。訴えかけるような蒼い瞳に、無表情な少年の顔が映っていた。
至近距離で見つめ合ったのは数秒。
カノンが慌てたように水無月から顔を離した。何故かその頬は赤くなっている。
「いい? 何があっても、水無月がオートマタだなんて誰にも知られないようにしてよ。バレたら最後、戦闘用オートマタのあなたは壊されるし、マスターのわたしも命が危なくなる」
「わかっている」
二人が自分たちの教室へ入ると、騒がしく談笑していた生徒たちの声が一斉に引いた。静かになったクラスでコソコソと内緒話が交わされる。
水無月の席は窓際の真ん中。カノンはその隣である。
自席へ向かったカノンは、はっと立ち竦んだ。
彼女の机には、マジックでびっしりと罵詈雑言が書き殴られていた。「バカ」「ブス」「死ね」「学校やめろ」の中に混じって「虐殺技師」という言葉もある。
クラスメートが反応を窺う中、カノンは表情を変えることもなく無言でハンカチを取り出した。オートマタの内部を手入れするために常備しているオイルをそこに染み込ませ、マジックのインキを黙々と落としていく。
こうした嫌がらせをカノンは日常的に受けていた。カノンが一人で対処できない場合は水無月も手伝わされるので、いい迷惑である。
カノンが机を磨いている間に担任のマイヤー先生が教室に入ってきた。マイヤーは熊のように大柄な男性だ。彼は、机を拭くカノンを認めるなり、同情めいた表情になった。だが、何も言うことなく授業の開始を声高に告げる。
一時限目は水無月にとって、とにかく退屈な歴史の授業だった。
「ヘルヴァイツ公国は資源にも国土にも恵まれない小国のため、二度の世界大戦にも巻き込まれなかった。ところが第二次世界大戦が終結して十五年後の一九六〇年、西ドイツで全世界を揺るがす事件が起きてしまう。それがかの有名な……」
「はい、吸血鬼王ルートヴィヒの奴隷宣言です」
点数稼ぎに必死な生徒がマイヤーを先回りして言う。
吸血鬼。それは伝承でも空想の産物でもなく、実在する種族だ。生物の血液を摂取することで〈魔術〉を扱える長命の亜人種、と定義されている。
「そう。それまで歴史の表舞台に吸血鬼は登場しなかった。吸血鬼に国はなく、彼らは吸血鬼王という強大な力を持つ王の元、結束する部族のようなものだった」
「はい、先生。吸血鬼はいつから地球上に存在していたのですか?」
挙手をした男子生徒に、ふむ、とマイヤーは薄い顎ひげを撫でた。
「よい質問だ。正確にわかっているわけではないが、彼らは古代バビロニアの時代、つまり紀元前から存在していたと言われている。世界各地で吸血鬼の古い伝説があるのは、彼らが実在していたからだ」
「それなのに何故、彼らは一九六〇年まで存在が公にならなかったんでしょう?」
男子生徒が続けて訊き、マイヤーは教室を見渡す。
「その質問に答えられる生徒はいるかね?」
「はい、ヴァンパイアは〈魅了(シャルム)〉の魔術を使えるからです」
いきなり立ち上がった斜め前の生徒に、水無月はぴくりと身体を震わせた。凝視する水無月に気付かず、答え終わった生徒は着席する。
マイヤーは満足げに頷いた。
「その通りだ。吸血鬼は吸血した人間の目を見ることで〈魅了〉をかけることができる。それは人間を完全に操る魔術だ。一度、吸血鬼に血を吸われた人間は生涯、その吸血鬼と共にいて、他者に秘密を洩らすことはなかったと推察される」
他に質問は、と言ったマイヤーに手を挙げる生徒はいなかった。
黒板にチョークを走らせながら、マイヤーは授業を継続する。
「長らく人目を忍び、ひっそりと人間と共生してきた吸血鬼だったが、ルートヴィヒの奴隷宣言以降、彼らは人類と敵対する。『全人類はヴァンパイアに隷属すべきである。我らの支配を拒む人間には死あるのみ』との宣言通り、吸血鬼王ルートヴィヒは抵抗した政府の要人を殺害し、たった十日で西ドイツを征服した」
「先生、ルートヴィヒが奴隷宣言を出した原因は何ですか?」
生徒からの質問に、マイヤーの板書する手がわずかだが止まった。
「……隠れて生きることへの不満が爆発した、と言われている。何故、このタイミングだったのかは謎のままだ。唐突にルートヴィヒは吸血鬼が世界を治めるべきというヴァンパイア至上主義に傾倒し、西ドイツを拠点にヨーロッパ諸国へ侵攻を開始した」
教科書の地図にはルートヴィヒの侵攻ルートが矢印で描かれていた。いくつもの矢印がヨーロッパ大陸を蹂躙している。
「ルートヴィヒは他の吸血鬼王とも手を組み、東ドイツ、ポーランド、チェコ・スロバキアと支配領域を拡大していく。そして一九六七年、アルプス山脈を越え、ヘルヴァイツ公国にも吸血鬼軍はやってきた。我が国で初めての吸血鬼との交戦を何と言うかね、ミスター・ザンデルホルツ」
ノートも取らず窓の外を眺めていた水無月は、あまり馴染みのない呼ばれ方に顔を前へ戻した。マイヤーの視線を受けて、水無月は立ち上がる。
「ノイエンドルフの戦いです。ノイエンドルフの大敗とも言われるこの戦いは、ヘルヴァイツの歴史上、初めての敗北でした。侵攻した吸血鬼王ルートヴィヒ・ローゼンベルク連合軍に、通常の銃火器で立ち向かった公国軍は数日で壊滅し、撤退を余儀なくされました。これによりヘルヴァイツの北方の街ノイエンドルフは吸血鬼によって占拠され、三年後に公国軍絡繰騎士部隊によるノイエンドルフ奪還が行われるまで……」
「ミスター・ザンデルホルツ。キミは教科書を一字一句暗記しているのかね。それくらいにしてくれないと私の話すことがなくなるんだが」
記憶領域にインプットしてある教科書の本文をそのまま諳んじていた水無月は、マイヤーの呆れたような目に気付き口を噤んだ。
着席すると、隣にいるカノンが睨んでくる。やりすぎ。口パクだけで言われる。
仕方ないだろ、と水無月はそっぽを向いた。オートマタの水無月は、視界に入った情報すべてを瞬時に記憶できるのだ。人間の加減なんかわからない。