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始:追憶のかなた
快晴は、いつも曇っている。
武道館に空はない。けれど悠かな蒼穹を目指すように、篭手に包まれた右手を掲げてみた。視界の悪い銀の格子にももう慣れた。今では身体の一部のような心地さえする面の隙間から、快晴は吊るされた日章旗を捉えた。その旗の意は、太陽。晴天。曇りなく世界に晴れ渡る、自分の名。
けれどこの場所に立つといつも、遠き日に封じた雨を、頬に降らせたくてたまらなくなる。
『笑えよ、カイセー』
身体は震える。身を焦がす灼熱とは対照的な、孤独の寒さに。
『せっかくいい名前、してるんだからさ――』
「……もう、無理だよ」
凍てつく視線を、彼方へ。剣を握る己の手は、とうに人のカタチをしていない。
何もかもが手遅れだった。どうしてこうなるまで放っておいた。
「捨てられなかったよ。僕は、馬鹿だな」
もう、いないんだとわかっている。それでも、夢を見たかった。
『只今より、第七十八回全国高等学校剣道大会、男子個人の部。決勝戦を始めます――』
一歩、二歩、三歩。寂寥の剣を携えて、世界の中心で静かに抜いて。
立ち上がる前の一瞬、快晴は悲しみに目を閉ざす。
憧れ続けた、つるぎのかなた。
そこに彼は、もういない。
× × ×
吹雪は、いつも燃えている。
場所も空気も選ばない。彼女が通り過ぎれば、そこは烈火の冬になる。世界は凍る。灰へと変わる。熱く胴をさらった一刀が、そのまま心を叩き折る。
相手のかじかんだ手が、二度と剣を握らないこともある。それでいい。
悲願を果たすそのときまで、春なんて来なくて構わないから。
「夢は、捨てたの」
真っ白な装束と防具に身体を包んで、吹雪は追いすがるよう手を伸ばす。
かつての夢。誰かの背中。冬を落とした鬼の正体。
つるぎのかなたに求めてみても、この手に残るは虚無ばかり。
「……寒い」
置いて行かれた。
だから、この身を燃やしてただ走る。
かつて失った大切なものが、戦場を駆け抜けた果てに待っているのだと信じて。
× × ×
悠は、はるか天を見上げる。
田舎の夜空は黒く遠く、真珠をばらまいたような星月夜が陽よりもまばゆい。何度も登った山の頂上で、悠は星の視線から逃げるように手を伸ばした。
「最後の約束、守るから。……他は、もう、捨てるよ」
笑ってみる。
少しは上手くなれたはず。だが、やはり未熟者めと怒るだろうか。それもいいなと、肩をすくめて視線を下げる。
小柄で儚い自分の母親が、小さな墓石の前で、目を瞑って拝んでいた。
『悠。お前が、母さんを守っていけ』
星の向こうから、過去が聞こえる。
「……かーさん。例の届け出、出しといて」
「……わかった。本当に、いいのか?」
「うん、決めたんだ」
今度こそ、ちゃんとやれる。やり直すことができる。
何よりも満足で嬉しいはずだ。なのに。
「さよなら、――」
呪いが解けたその瞬間、左手の震えが止まらなかった。