オリンポスの郵便ポスト


2 配達員と労働者


 第二次世界大戦の開戦前夜となる一九三八年秋。アメリカ・CBSネットワークのラジオ番組から流された一つのニュースが全米を恐怖に陥れた。

 夜八時過ぎ、人々はチャンネルを合わせ、ラジオから流れるオーケストラに聞き入っていた時だった。曲が不意に止まり、鬼気迫るアナウンサーの声に切り替わった。

「ここで番組の途中ですが、臨時ニュースです」

 最初の一報は、ニュージャージー州の小さな村に隕石が落ちたというものだった。ニュースは高名な大学教授へのインタビューにつなぎ、隕石は火星表面で起きた爆発現象によって飛来してきたものだと報じた。しかし、現場に向かったスタッフが見たものは、想像を絶する光景だった。それは隕石などではなかったのだ。

 円盤型の飛行体の入り口が開き、ぞろぞろと異形の生命体が這い出すのを彼らは目にした。そして三本の細い足を蜘蛛の如く這わせ、巨大なロボットが現れた。恐慌状態に陥ったラジオのリポーターの絶叫が全米に流された。

「火星人の襲来です!」

 未知の兵器によって武装した軍勢はプリンストンの街を焼き払い、アメリカ合衆国の心臓部であるニューヨークへと進軍を開始。ラジオを聴いた人々はたちまちパニックになった。地元の警察署には電話が殺到し、隕石の落下現場近くでは火星人を退治しようと発砲騒ぎも起きた。多くのニューヨーク市民が避難を開始する一方で、いざ祖国を守らんと義勇兵たちも続々と集結した。ひっきりなしにかかる出動要請に、警察と消防隊も次々と現場へと向かっていった。そして、一時間に及ぶパニックの末、再びアナウンサーが伝えた。とても陽気そうな声で。

「リスナーの皆さま、最後までお聴きいただきありがとうございます。ラジオドラマ『宇宙戦争』は楽しんでいただけましたでしょうか」

 ラジオドラマの迫真の演技と演出に百万人以上がものの見事に騙されたのだ。今でこそとんだ笑い種かもしれないが、その端緒を辿ると六十年前にまで遡る。イタリアの天文学者ジョバンニ・スキアパレッリによる、とある発見のことだ。

 火星の地図を作製していた彼は火星表面の黒い影の間をつなぐ細い無数の線が複雑に交錯していることに気付いた。当時、その黒い影は植物が自生するエリアだと考えられていた。スキアパレッリはこれを人工的な「カナリ《運河》」と考えた。そして、アメリカの天文学者パーシバル・ローウェルは火星には高度な文明が存在すると主張した。SF小説の大家ハーバート・ジョージ・ウェルズが名著「宇宙戦争」を産んだのもそんな時代背景があったからだった。

 時代を鑑みれば、そんな嘘のニュースにも人々がまんまと騙されたのも仕方ないことかもしれない。膨らんだ頭部から伸びる、デビルフィッシュの触手を思わせる手足。地球の隣にはきっと火星人がいるはずだ――。それは地球の全土を踏破し、開発し尽した人類にとっては唯一、最後に残されたロマンだったのだ。

 そんな人類のロマンがぶち壊されたのが一九七六年のこと。アメリカの無人探査機ヴァイキングが火星に上陸し、その寂寥とした荒野を初めて写真に収め、地球へと送信した。丘の向こうで手を振る火星人の姿は写っていなかった。

 やがて、人々の興味は「火星に生命がいるか」から「かつて存在していた生命の痕跡を探す」ことに移り、そして、やがては「人類が火星に移り住む」ことへと変遷した。

 地道な観測の結果、この星が太古の時代に豊富な海と大気に覆われていたことも分かり、さらに二酸化炭素や窒素の分子が土壌に閉じ込められていることも判明した。もし、これを利用して二酸化炭素の濃度が上げることができれば、温室効果によって気温も上昇する。貧弱な太陽光エネルギーも火星の高度十万キロに三千万トンに及ぶ大がかりな集光レンズを設置する計画が進んだ。幸いにも、火星の南北極には数十億年もの昔から、巨大な氷塊が残り、水に困ることもなさそうだった。植物が自生できるようになれば酸素も生み出されるはずと考えた。

 この途方もなく壮大な計画も、全人類があらゆる総力をつぎ込めば、一世紀の間に火星を移住可能に惑星改造(テラフォーミング)することも夢ではない。多国間による巨大プロジェクトが立ち上がり、人類が第一陣となる開拓移民団を死の惑星に送り込んだのが西暦二〇四〇年代の半ばだった。

 決して故郷に戻ることのできない片道切符を喜んで手にしたのは「レイバー」と呼ばれる二千人に及ぶ改造人類(サイボーグ)の一団だった。バンアレン帯によって保護された地球とは異なり、磁気帯を持たない火星は太陽風や宇宙放射線に剥き出しに晒され、生身の人間が生きていくにはあまりに過酷な環境だった。だからこそ、彼らはその身を鋼鉄の肉体で覆うことを選択した。

 故郷を捨てた屈強なレイバーたちは来る日も来る日も、働き続け、環境改造に奔走したという。鋼鉄の身体は老いることもなく、病むこともなく、死ぬこともない。食べることも、寝ることもせず、彼らは文字通り、不屈の労働者(レイバー)として働き続けた。一世紀に及ぶ惑星改造を終え、第二、第三の開拓団が続々と火星に移り住むようになってからも、彼らは貴重な労働力であり続けた。しかし、その姿も今ではほとんど見かけることもない。今から八十年前、この星の全土を巻き込む大規模な内戦が勃発し、多くのレイバーたちが兵隊として駆り出されたという。彼らのほとんどは激しい戦火の中で、殉死を遂げたと聞かされている。

 そして、開拓時代の終焉とともに彼らは歴史の表舞台から姿を消したのだった。