オリンポスの郵便ポスト


 夜は深まり、いよいよ本格的に寒くなってきた。私は分厚い外套を羽織って、小さなランプの火に手をかざして暖をとった。日中との寒暖差は三十度以上。それでも、開拓民たちが直面した過酷な環境と比べれば、ぬるま湯の中にいるようなものだ。

 私は手持ち無沙汰に、地図を広げた。早朝にエアリーを発って西に九十キロ程度。悪路であることには違いないが、比較的平坦な場所を走ったので距離を稼ぐことができた。とはいえ、旅はまだ序盤に過ぎない。私は指の先を地図の上に走らせた。現在の場所がマルガリティファー高地。そこから西に延びるのが、恐らくこの旅で最大の難所となるマリネリス渓谷。目指すオリンポスの山は渓谷を西に抜けた先、広大な火山台地の上にある。

 ここから先は本当に未知の世界だ。街も人もない。私はふと、頭を上げる。ふと、クロと視線が合う。彼は私が膝の上に広げた地図に目を落とした。

「えっと……クロさんはオリンポス山には行ったことはないんですか」

「以前、麓にあるタルシシュで任務についたことがありました。内戦の激しい時期でした」

「タルシシュって……確か内戦で滅んだ街ですよね」

「タルシシュとは旧約聖書に記されている西の果てにあるとされる街です。その由来の通り、この星の西の果てにあるタルシス台地の中心に建設された惑星改造の一大拠点……でした。開拓期にはこの星で最も栄え、破壊されるまでは軌道エレベーターも稼働していました。それが、この星と地球とを結ぶ唯一の玄関口でもありました。しかし、八十年前、未曾有の大災害によって甚大な被害を受けた街は混乱の中で、さらに《紅き蠍(スコーピオン)》の襲撃を受け壊滅しました」

 《紅き蠍(スコーピオン)》とは私も少しだけ聞いたことがあった。あちこちで略奪行為を繰り返し、内戦の火種を撒いた極悪非道な武装集団。その中心は開拓時代を終えて、仕事も居場所も失ってゴロツキになったレイバーたちだったそうだ。《労働者(レイバー)》なのに無職とは、これ如何に。ふと、私はクロの顔を覗き込んだ。それに気づいたクロは私の不安を払拭するように笑い飛ばした。

「大丈夫ですよ。私は《紅き蠍(スコーピオン)》ではありませんよ。私がタルシシュに招集されたのは、むしろ彼らから民間人を保護するためです」

 ちょっとだけホッとした。しかし、考えてみれば、クロのような人が略奪行為に加担するとは思えない。でも、彼が勇猛果敢に悪の組織と戦う姿も想像できない。どちらかと言えば、この人は図書館の奥で一日中、読書に耽るような――荒事とは無縁のイメージだ。

 半世紀に及ぶ戦火は、せっかく築き上げたこの星の文明に回復不可能なダメージを与えた。ようやく自然増加の兆候が見えた人口も半分以下に減り、戦争が終結した後もその数字はゆっくりと減り続けている。何百万人も死んだ悲劇も私にとっては現実から離れたどこか遠くのお伽噺だった。でも、クロにとってそれは、昨日の夕食のメニューを振り返ることと同じなのだ。

「私、臆病者ですから。逃げて逃げて。怖くてずっと逃げていましたよ」

「でも、民間人を守る仕事だったんですよね」

「ずっと、逃げてばかりでしたから。私には大切なものを守ることができませんでした」

 辛気臭い。私は何と言葉を返せばいいか分からない。この人は平気でこちらが反応に困ることを言う。「いいえ、いいえ。そんなことありませんよー」と明るく励ませばいいのか。それはそれで本当に馬鹿みたいだ。私の目の前で腰かけているのは鉄の塊だ。見れば見るほど人間とはかけ離れた造型なのに、話を聞けば聞くほど、人間臭い。

 ――やっぱり、クロもほかのレイバーみたいに、昔は同じ人間だったのかな。

 幾度となく頭の中で繰り返した疑問だ。いや、しかし、いくらなんでも、そんなことをぶつけるわけには。あなた、本当に人間ですか、とは流石に。

 隣でクロがすごく驚いたような様子で私の顔を直視している。最初はその理由が分からなかったが、少し間を置いて考えて、私は慌てて両手で口を塞いだ。

「ひょ、ひょっとして、私また、今の口に出して喋っていましたか!」

 何も言われず、こくりと頷かれると、私の頭はまたパニック状態に陥った。

「いえいえ、これはですね、決して悪気があったわけではなくてですね! じゅ、純粋な疑問が湧いたっていうか……ではなくてですね、その答えてもらいたいとかじゃなくて……」

「エリスさんはこの鉄の身体が怖いですか」

 クロが寂しそうに言う。私は全力で首を横に振った。それがかえって白々しいと思われたかもしれない。だが、クロの声に怒った様子もなく、淡々と糸を手繰るように昔話を語り出した。

「よく勘違いされますが、我々は一度に全身を機械に入れ替えたわけではないのですよ」

 首を傾げる私にクロは拳を握った左腕を静かに持ち上げた。

「最初は左手でした。火星について三カ月ぐらいした頃でしたか。エリスさんは惑星改造(テラフォーミング)の現場がどのような場所だったかご存知ですか」

 首を横に振る私にクロが言う。

「地獄の釜です」

「……地獄の釜?」

「北冠に近いボレアリス平原に全長二百キロを超す巨大な人工クレーターがあります。それを私たちはそう呼んでいます。惑星改造(テラフォーミング)の最初のステップとしてまずはこの星に地球と同じ大気の層を造りだすことを試みました。当時の火星の大気圧は地球の1%にも満たない七ミリバール。そのうち九十五パーセントが二酸化炭素です。これを百倍に引き上げる。地球で言えば標高三千メートル地点の気圧に相当します。ですが、それだけの量の気体を地球から運びこむことは現実的ではありません。ですから、我々はそれらを現地で調達することを考えました」

 クロが右手の人差し指を下に向ける。

「この土です。ご存知の通り、この星は太古、厚い大気層によって覆われていました。その時代の空気は長い年月の中で、多くは太陽風によって吹き飛ばされましたが、その一部は分子レベルに分解され、この土壌の中に溶け込んで残されていると我々は考えました。この星の岩石の多くを構成するのはケイ酸塩鉱物です。岩石は千七百度で溶融し、二千七百度以上で気化し、二酸化炭素と水蒸気、そして酸素を放出させます。鉄や銅を掘り起こすように、我々は熱線で大地を穿ち、焦がし、溶かし、そうやってこの星に大気を満たしたのです」

 そして、出来上がったのは巨大な大穴(クレーター)というわけだ。溶かされた岩石はぐつぐつとマグマのように煮えたぎり、巨大な鍋の底に沈む。自然の中にできた溶鉱炉はさながら地獄の大釜。

「岩の中には有害な化学物質も閉じ込められていました。駐屯地の換気装置は十分ではなく、多くの者が肺を病みました。それに、地面を溶かす熱線装置には放射能物質が火種として利用されていました。人間が一生のうちに浴びる放射線量を我々は数日のうちに浴びました。地獄の釜の内部は数百度に及ぶ灼熱地獄も、その外は氷点下百度を超す極寒地獄。凍傷で指先が壊死することもあれば、全身に致命的な火傷を負うこともありました。内臓は酸化物質を含むこの星特有の砂塵(ダスト)と空から降り注ぐ放射線に蝕まれていきました。私の場合、最初は凍傷によって左手を切断し、代わりに義手をはめました。その後は重機に挟まれ潰された右脚の代わりに鉄の義足をつけました。砂塵(ダスト)を吸い、病んだ私の肺は人工の気管支に差し替えられました。心臓も血脈も骨も、その機能を低下させるたびに、金属と合成樹脂でできた異物が身体の中に差し込まれていきました。そうやって私の身体は次々と私のものではないものによって徐々に挿げ替えられ、支配されていったのです。そして、最後まで残ったのはここです」

 クロが自らの頭部を指差す。

「ですが、その脳も二十年ほど経って機能低下が起こる前に記憶情報をコピーして半導体に入れ替えられてしまいました。機械の身体には機械の脳の方が、親和性が高いのだと言われました。ですから、今、私の身体には人間のものは欠片の一つもありません。その意味で私はもう人間ではありません。あくまでも、人間だったころの記憶が、半導体のメモリーの中に刻まれているだけで、私が私であることを証明できるものは何もありません」