熟練した配達員(ポストマン)でも地形図から自分の座標を読み解くのは至難な業だ。それを彼はあの短時間のうちにいとも簡単に、座標から方角からすべてを読み解いたということになる。
「実はですね、私、昔に、地形図の測量の仕事をしていた時期がありまして」
得意げに鼻を高くするわけでもないが、クロが畏まったようにネタばらしをする。彼は私の前に地図を広げて指さした。入り組んだ黒線で書き込まれた標高線と複雑に交差するように伸びた短い青色の線。古い地図にはよく見るものだが、正直、ほとんど意識したことはなかった。
「多くの人が火星に磁気帯がないと思われていますが、実はそうではないんですよ」
サイドカーから下り、クロは地面の感触を確かめるように、赤土の大地を踏みしめた。
「えっ」と驚く私の顔を少し見て、クロは説明を続けた。
「地球では液体の内核が流動することによって、星一つが大きな電磁石となって巨大な磁場を生み出しています。けれども、この星は遥か昔に死んだ星です。火山活動もプレートテクトニクスも存在しません。冷え切った内核は固化し、この星ではダイナモ効果による地磁気が生まれることはありません」
荒野の中心で私たちを見下ろす双子岩は十数メートルに及ぶ巨体を空に向かって屹立させていた。見ようによっては、それは人の形にも似ている。空に向かって拳を突き上げる男と、地面に蹲って嗚咽するもう一人。これが悠久の時の流れの中で自然に生まれたものだと断じるのには、あまりに思わせぶりな姿形をしている。クロは嗚咽する人の足元へと歩み寄った。
「しかし、かつてはこの星も生きていました。流動する液体核が惑星を覆う磁気帯を生み出し、活発な火山活動によって吐き出される二酸化炭素が大地を分厚い大気の衣に覆っていました。今から三十億年も昔の話です。その時代の残滓は今もなお、この大地に刻まれています」
クロが取り出して見せたものは、例の羅針盤。赤い針は二人の巨人に向かって差していた。
「残留磁場と言います。太古の時代の磁気が大地に刻まれて残っています。地球でも化石層に残った残留磁場が過去、数度にわたって起きたポールシフトの証人です。ですが、これは星一つに満ちるものではなく、例えるなら、枯れ果てた砂漠の中に辛うじて残る水源帯……オアシスと言ったところでしょうか。もちろん、地殻の変動によって、羅針盤の針が常に北を指し示すほど単純なものでもありません。ですが、迷子になった我々に行先を示してくれる大切な道標であることには違いありません」
そこまで説明されて、私はようやく地図に複雑に書き込まれた謎の青い線の意味を知った。
「なら、まさか、これが残留磁気の向きってこと……?」
ポイントごとに異なる磁力の向きが事細かに記されているのだ。私は驚きの顔を再び、クロに向けた。この広大な大地を測量しながら巡り、記したのは地形図だけではない。それにはいったい、どれだけの労力と時間を費やしたのだろう。だが、それを成し遂げたのは、今、私の目の前にいるレイバーという人種だ。
その地図に記された記号の意味も私は知らなかった。それが堪らなく恥ずかしかった。
「今の若い人が知らないのは仕方ないことです。とても微弱な磁力ですから、地球製の精密機でなければ検出することができません。内戦以降は地球製の羅針盤もなかなか手に入らなくなって、こうした磁力線を示した地図も廃れていきましたから」
クロは私の掌に例の羅針盤を載せた。
「どうか、役立ててください」
「え……これを、私に? でも、いいんですか。これ、大事なものではないんですか」
何しろ二百年もの間、肌身離さず持っていたものだ。
「いいえ。どのみち、私にはもう必要のないものですから」
私の頭にまたあの言葉が過る。――私は自分の死に場所を探しているのです。これではまるで形見分けだ。思わず口に出そうになった言葉を、羅針盤と一緒にポケットの奥に突っ込んだ。