あまりに壮絶。自分が自分でなくなる残酷な過程(プロセス)。それを、コンピューターが古いデータを引っ張り上げるように、クロは何の感情の抑揚もなく、ただ淡々と説明する。それがかえって怖い。開拓者――労働者(レイバー)たちは病むことも、死ぬことも許されなかった。彼らは単純に挿げ替え可能な労働力ではないのだ。彼らを火星まで送り届けるため、一人当たりで換算して数百億ドルの経費が掛かっている。だから、簡単に死なれては困るのだ。
でも、それでは単なる奴隷だ。他人から強要された運命に従う必要はない。抗えばいい。
「勿論、反乱を企てる者もいました。ですが、そこまでです。抵抗したところで意味がないことを知っていますから、みんな。現実問題として、生身の身体でこの星では生きていけない。身体の一部が壊れ、処置しなければ死んでしまうという状況で示される選択肢はいつも一つだけでした。そもそも地球を発つときに我々に渡されたのは往きの片道切符だけです。いくら抵抗しようとも、我々が地球に帰ることはできない。その手立てがないのです」
新天地に夢と希望を抱き、人類の未来のために我が身を投げ売った開拓民たち。その強き使命感と英雄的な行動を後世の人々は讃えた。少なくとも、私はそう聞いている。
「いいえ。夢も希望も、人類への使命感も持った者など一割もいません。何しろ、労働力として世界から掻き集められたのはその七割近くが囚人――つまり、刑務所に服役中の犯罪者です。身寄りがない者や懲役期間が百年近い者たちが強制的に選出されました」
驚いて、私は顔を見上げる。その反応も、きっと予想の範疇だったのだろう。クロが静かに頷いた。そして、言った。「私もその中のうちの一人ですよ」と。
「嘘でしょ。だって、そんな。クロさんが悪いことをするような人には見えな……」
また、無遠慮に頭に浮かんできた言葉を垂れ流す口を両手で塞いだ。数々の無礼を働くこの口を私は正直、縫い付けてしまいたかったが、でも、クロは少し嬉しそうだった。
「そう言ってくれるだけ、私も少し気持ちが楽になります。私の生まれた国は文化統制の厳しい国でした。私が逮捕されたのは十七歳の時。日が昇りきらないような早朝、突然、武装した警官隊が家の中に押し寄せて、私は拘束されました。そして、その日のうちに裁判にかけられ、私は収容所に送られました」
十七歳、と聞いて私はぎょっとする。自分と同じ歳だ。
「罪状は、国体と公共に対する騒擾を煽動する文物の頒布、というものでした。国の治安当局によって禁止されている海外の小説の翻訳作業――学校の研究会の活動で古いイギリスの小説を翻訳し会報に掲載したことが、軍権政府の掲げる国粋主義に触れたのです。特に、私が翻訳したものは戦争を主題としたものだったので、当局も無視できなかったのでしょう。国家騒擾に関わる政治犯は私の国では罪が重く、私は百五十年の懲役を言い渡されました。ちょうど、その頃でした。多国間による火星移住計画が第一陣の入植者の公募を始めたのは」
当時から移住計画は地球には二度と戻って来られない片道切符と言われた。当然、手を挙げる希望者の数は定員に届くものではなかった。そこで各国で裏取引が行われたらしい。経済状態が悪化していたクロの国の軍権政府はまるで使えなくなった玩具を売り飛ばすように、数百人規模の政治犯をその人類の一大プロジェクトに送り込んだのだという。
私はクロに尋ねた。彼の逮捕のきっかけとなった古い小説のタイトルを。
「ハーバード・ジョージ・ウェルズの《宇宙戦争》です」
クロは自分で言って笑っていた。十九世紀に書かれた、蛸に似た姿をした火星人がロンドンを襲撃するというお話だ。人類がまだ、この宇宙で隣人の存在を信じて疑わなかったころの古典だ。それにしても、火星への移住計画が持ち上がる時代に、火星人襲来のお話をわざわざ翻訳して捕まるなんて、随分と捻くれていた青年だったのだろう。そして、まさか、その自分が火星に送られるとは、随分と運命の皮肉が効いている結末だと、自嘲交じりにその当人が言う。
「あの日以来、私は家には帰っていません」
クロは呟いて、夜空を見上げた。その空の闇の向こうに、彼の故郷である青い星が瞬いていればよかったのだけど――。
「そうなんですか……それじゃあ、家族は……」
「塗装工だった父と母。そして姉にはまだ幼い姪っ子がいました。家族には最後まで迷惑をかけっぱなしでしたね。私が逮捕されて両親はすっかり老け込んでしまいました。姪っ子はセイラと言うのですが、まだ五歳でした。何をする時もいつも、私の後ろについてきて可愛い子でした。きっと立派に成長して……結婚もしたのかもしれません」
立派に成長も何も、もう二百年も昔の話じゃない、とは言えなかった。
「逮捕の前日。寝室を覗き込んだ時に見せてくれたあどけない寝顔を見たのが最後でした。それから会っていません。元気にしているのでしょうか。それだけが唯一の気掛かりです」
家族のことを話すその時だけ。彼の言葉に感情がこもっているような気がした。この二百年の間に起きたことをあれだけ冷静に、客観的に振り返っていた人がどうして。二百年も経って、まだ、自分の家族があの空の向こうで生きていると、信じられるのだろう。
でも、同時に私は少し安心した。凄惨たる過去を淡々と的確に振り返る彼は少し機械のようだった。一方で、私は彼の中にまだ眠っている人間的な何かを見つけたような気がした。
だから、私は彼にある提案をすることにした。
「クロさん。それなら手紙を書いてみませんか」
「……手紙?」
「そうです。セイラさんに手紙を」
「いや、しかし。手紙を書くと言っても、地球まで届くわけが……」
「私たちが今、どこに向かっているのか、もう忘れたのですか。オリンポスの郵便ポスト。神様がどこへでも手紙を届けてくれるという魔法のポストですよ」
驚いたのか、それとも呆れられたのか。その表情を私は読み取れることはできないが、彼はしばらく動かなくなくなり、長考した様子を見せた。何を迷うことがあるのだろう。
「まだ、時間はたっぷりとありますよ」。強引に押して、ようやくクロは頷いた。
「分かりました。手紙なんて久しく書いたことがありませんでしたが……挑戦してみます。エリスさん、申し訳ございませんが、ペンと便せんはありませんか。あと、切手も」