――その絶滅危惧種が今、私の隣に座っているわけなのだが。
ローバースクーターに跨り、エアリーから赤土の荒野に繰り出してはや半日。
日の出から私たちの旅の出発を見届けた太陽も今では西の空へと傾きかけている。私はサイドカーに陣取る鋼鉄の塊に目を遣った。何を話すでもない、話しかけられるわけでもない。寸胴に両腕を組んで、じっと、赤い大地の先を眺めている。やりづらい。この一日、ずっと喋っていないんじゃないか、私たち。荒野に二人きり。これ以上の沈黙に私は耐えられる自信はなかった。
――私は自分の死に場所を探しているのです。
つい先日、クロが口にした言葉を思い返した。どうして、オリンポスに行くのかと尋ねて返ってきた台詞がこれだ。
さすがに予想もしていない回答だった。重すぎる。いくら何でも、あんなことを言われれば、誰だってドン引きする。私は自殺志願者を届け物で運んでいるのか。あの言葉の真意を知りたい。いや、聞けるわけない。さすがに郵便配達員如きが踏み込んでいい話とは思えない。依頼主との距離感を測りかねながら、それでも時間だけが悶々と過ぎていく。
「いやあ、このへん、何もないですねぇ。こうも何もないと退屈しちゃいますよねぇ」
「ええ、そうですね」
「…………」
「…………」
そこで会話は途切れる。何をしているんだろう、私。そして、また気の遠くなるほど長い沈黙が開始された。
私はローバースクーターを止め、鞄から地図を取り出した。黄ばみかけた大判の古紙に事細かに記された地形図。コンパスを合わせて距離を測る。首を捻った。地形図と目の前に見える景色とで微妙に形が合っていないのだ。密かに慌てた。ひょっとして迷子……?
この星で方位磁石は役に立たない。双極性の地磁気に覆われた地球と違って、火星は磁気帯を持たないからだ。何もない荒野で自分の立ち位置を正確に把握することは困難を極める。
多くの地図には、ロケーションポイントと呼ばれる目印――例えば、奇怪な形をした岩や窪地――が記されている。そのロケーションポイントや周囲を取り囲む峰々の形、クレーターの位置から方角も自分の位置も割り出すのがいわゆる「山アテ」。この火星の原野を旅することは古い時代の航海士の仕事にも似ている。地図上から二つの目標物を見つけ、直線で結べば、自分の位置をおおよそ特定することができる。私は地図を見た。およそ三十分ごとにこうしてスクーターを止め、硬鉛筆で地図に走行ルートを線で書き込んでいる。地図を見る限り、この辺りまで来れば、巨大な双子岩が目印に見えるはずだが、それらしいものは確認できない。
勿論、開拓期の古い時代に記されたものを基にしてつくられた地図なので、小さな岩や地形は風化され、消えてしまうこともある。西方には連綿と山々の峰が続いていたが、地図上に記された標高線と比較すると違和感を拭えなかった。直感が確信へと変わる。
「エリスさん、いかがいたしましたか」
「すいません。ルートがずれたようです。一度、前のポイントまで戻らせてもらいます」
迷子になったら、来た道を引き返すというのが鉄則だ。これが走り慣れたエリアなら兎も角、私にとっては未踏の魔境と同じだ。それに、エアリーから西方にはほとんど人が居住する街はないはずだ。遭難したからといって、キャラバン隊に拾ってもらうわけにいかない。
私はスクーターをUターンさせて引き返そうとする。それをクロが止めた。
「エリスさん。すいませんが、その地図を見せていただけませんか」
クロは私から少し強引に地図を取り上げると、ふむふむと唸りながら読み込む。そして、手持ちの荷物から半円状に膨らんだものを取り出した。それは、大分使い古されてはいたが、かなり精度の高い羅針盤のように見えた。恐らくは地球製の精密機械だろう。
「クロさん。どうしたんですか。この星では地球みたいに方位磁石は使えないんですよ」
二百年以上もこの星で生きてきて、そんなことを知らないわけがないとは思うけど――。
地図の上に羅針盤を置き、その丸太のように太い手で器用に向きを調整する。そして、羅針盤の赤い針が指し示す方向とは真逆の方角を指差してこう言った。「こっちが北です」
「は?」と、思わず顔が歪んだ。何か高度なジョークかと思ったが、そもそも、冗談を言うような類の人間(?)には見えない。それに、何で地球から持ってきた役にも立たない羅針盤を二百年間も大事そうに持っているのかも分からない。
「やっぱり、ちょっと、おかしい人なのかな……」
「あの、エリスさん。声に出ていますよ」
慌てて、私は両手で口を塞いだ。また余計なことを口から垂れ流してしまった。さすがに、これは怒られるだろうと覚悟したが、クロは相変わらず、肩身が狭そうにサイドカーの座席の中に収まっている。鉄仮面の奥の表情までは分からないが、怒っている感じではない。
「あちらに向かって下さい」。当てずっぽうで言ったような方角を自信満々に指差す。
「あのですね、クロさん。いくら何でも、当てずっぽうに走ったら遭難してしまいますよ」
「大丈夫です。私を信じてください。この星は私にとって庭みたいなものなのですから」
いつもの控えめな態度からはかけ離れた自信に満ちた言葉に、私も頷くしかなかった。
彼の指差す方向にスクーターを走らせること十数分。巨大な双子岩が荒野の真ん中で私たちを待ち構えていた。にわかには信じられなかった。私はサイドカーに腰掛けるクロを見た。彼はさも当然のことのように、じっと座って移り変わる景色を見つめ続けていた。