オリンポスの郵便ポスト


「それよりも今日はここでテントを張りましょう。次のポイントまでは少し遠いですから。暗くなれば、地形を把握することもできなくなります」

 陽射しはまだ、西の空の高い場所にあった。確かに無理をすれば、まだ先に進むこともできるだろう。しかし、地図を見ると、この先は標高線が複雑に入り組み、かなりの悪路を覚悟しなければいけなかった。クロの判断は決して間違ってはいない。寧ろ郵便配達員(ポストマン)の私よりもずっと旅慣れている感じで、正直、少し悔しかった。

 私はローバーを停めると、日が沈むまでのわずかな時間を利用しようと、ソーラーパネルのアンテナを展開し、西の空に向けた。車体にもバッテリーは搭載されているが、これからの長い旅路を考えると、心許ない。明日からは日中にも太陽光の充電にまとまった時間を取るようにすることを考えなければいけない。

 アンテナの設置を終えると、今度はテントの設営に移る。コンテナボックスを開け、キャンピング用の道具を取り出す。しかし、エアリーから用意してきたテントは一人用の辛うじて風を防げる程度の簡素なつくりのものだった。私は少し困ったが、クロは、自分は外でも大丈夫だと主張した。とはいえ、依頼主(クライアント)様を粗末に扱うわけにはいかない。

「いいのです。我々、レイバーには家も屋根も関係ありません。夜の冷たさも、吹き付ける風も感じません。私たちは二百年も昔、まだこの星の平均気温が摂氏マイナス四十度、空気さえなかった時代に、この荒野でほとんど休みなしに働き続けてきたのですよ」

 そう言われたら、私には何も言えなくなる。加えて、レイバーは水も食料も何も口にしない。クロは岩の一つに腰を掛けると、そのまま自分まで岩になったかのように動かなくなった。その隣で携帯用食料キットの封を開けるのには少し度胸が必要だった。

 ランプに火を灯して小さな一人用の鍋を炙る。少量の水に固形スープを溶かすだけだ。貧相な食事だが、夜は氷点下近くまで冷え込むこの星の大地では身体を温める料理が一番大事だ。元々は開拓時代に開発されたもので、携行用食料としても優秀。わずか数センチ程度の塊で、一日に必要な最低限のカロリーを摂取できてしまうのだから長旅には欠かすことができない。

 私は料理を鍋から小皿に盛りつけ、クロに差し出したが、やはり首を横に振られた。

「あの、お水とかいりますか」「お気遣いなく」

 クロは空に広がる星をずっと見ていた。私は居心地の悪さを感じながらも、食事を平らげ、片づけをこなした。その間も、クロは一言も発せず、空を眺めていた。

 一息をついたところで、今度は抗いきれない生理現象が私に襲い掛かる。こんな時、近場に仮設トイレがあったりしたらどんなに便利だろうと心底思う。だからと言って、こんな荒野の真ん中で無防備に用を足すわけにはいかない。

 ローバーの後部ハッチを開き、貯水タンクを確認する。出発時に持ってきた四十リットルの水はそのままほとんど減っていない。けれど、この程度の量なら二十日もしないうちに飲み干してしまうだろう。勿論、空気中の水蒸気を掻き集めて濾過することもできないわけではないが、この乾いた大地ではそれだけで飲料水になるだけの量を賄うのは望み薄だ。

 例えば昔、宇宙開発が始まったばかりの頃の私たちのご先祖様。宇宙ステーションで半年や一年過ごすこともあったと聞くが、その間の水はどうしていたのだろう。人間が一日に必要とする水の量は最低二リットル。それだけの量の水を地上からちまちま運んでいたのだろうか。そうではない。大切なのは「もったいない」の精神だ。身体から排泄される「水」は一日一・五リットル。それを「リサイクル」できれば、かなりの節水になる。

 そんなわけで私は浄化装置を経由させて、携帯用トイレと貯水タンクをパイプでつなげた。今から私が出す水はこれから小さな旅をして、再び私の口の中へと戻ってくるのだ。万歳。

 恥ずかしいかと聞かれれば、それはもうすごく恥ずかしいが、幸いにもこんな荒野の真ん中で見ているのなんて石と砂くらいのもの。いや、しまった。クロがいた。

「あの……クロさん。えっとですね……お願いが……えっと、そのですね。すごく心苦しいのですが、後ろを向いてそのまま、私から離れてくれませんか。できるなら三キロくらい」

 いきなり年頃の女の子にそんなことを言われて、私が男の人だったら軽く落ち込むと思う。

「え……あの、それはどういう……」。案の定、クロの声は震えた。これで全てを察してくれるような人だったら助かるのだけど、そんなことはきっとないだろう。

「あのですね、その……ごにょごにょ……」

「申し訳ございません、お話が聞き取れません。もう少し大きな声でお願いできますか」

「えっと、その……少しばかり、お花を摘みに……」

「花ですか。こんな場所に咲いているとは思えませんが。それに、もう暗いですから……」

「だからぁ! おしっこするから、どっか行ってと言っているの!」

 私の後ろにあるトイレとポンプを見てようやく気付いたのか、クロは慌てて闇夜の荒野を駆けだした。それからクロが帰ってきたのは一時間経った後。すごく悪いことをしたと思った。