続・追憶編 ─ 凍てつく島 ─

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◇ ◇ ◇

  昼食を済ませた後、ゆきは早速ニブルヘイムの練習を開始した。
  場所はやきしま東半分のようがんげんやきしまには二つの火口がある。島の西に位置する低い火山が西にしだけ。二〇〇〇年代に島として観測されたのはこの山だ。二〇二〇年代に西にしだけひがしさんろくから溶岩が噴出し、斜面に従って島の東側にようがんげんが広がった。この新しい火口がひがしだけひがしだけは現在のやきしまのほぼ中央に位置している。収容所は西にしだけの西側にあり、ゆきが練習に使うのはひがしだけの東側だ。
  練習の付き添いはたつ一人。ここまで電動カートを運転してきたのも彼だった。
  しかしたつは、ゆきのコーチというわけではない。妹がやろうとしていることは分かっている。広域冷却魔法ニブルヘイムの修得だ。だがその為に何をすれば良いのかは知らない。本家から指導方法のようなものは聞いていない。
  それなのにゆきはさっきから、CADをスタンバイした状態でたつの顔をちらちらとうかが見ている。「何をすれば良いのでしょうか?」と問いたげな表情だ。少し途方に暮れているようにも見える。
  「……まず、現段階でどのくらいできているのかやってみてくれないか」
  そのまま立ち尽くしているわけにもいかなかったので、たつは取りえず、こう提案・・した。
  「あっ、そうですね。それでは」
ゆきたつから指示・・をもらって、ホッとしたように笑みを浮かべる。そして、ようがんげんを見渡したままCADを操作した。
  活性化した想子サイオンによって動的な情報構造体が形作られようとしている。それがたつの「眼」に「」える。
たつは意識を集中して、『精霊の眼エレメンタル・サイト』を魔法の発動過程へ向けた。
  見渡す限り一面に魔法式が書き込まれている。イメージとしては投影と表現した方が近いかもしれない。見渡す限りという表現はややおおだが、ゆきを基点とした正面視角九十度の空間が魔法式で埋め尽くされている。
  ただ、最奥と最端の部分、魔法式が書き込まれている空間と書き込まれていない空間の境目の所で、情報体の構造があやふやになっていた。ちょうど画用紙の端がれてすいさいの具にじんでいるような感じだ。
  エレメンタル・サイトで情報次元を観測する際に訪れる引き延ばされた時間の中で、魔法の最終プロセスが実行されたのが「」える。構築された魔法は振動減速系広域魔法の中で最も強力と言われる術式、ニブルヘイム。
  「あっ……」
ゆきの唇から失望としゅうがブレンドされた吐息が漏れる。
  ニブルヘイムは、発動しなかった。
  「あ、あの」
たつへと振り返ったゆきの口からは焦りを示す声しか出てこない。
  「照準の設定が甘かった」
ゆきが意味のある言葉を紡ぎ出すより早く、たつが失敗の原因を指摘する。
  「魔法発動に失敗したのは、事象改変の境界面を明確に定義できていなかった所為せいだ。それ以外はできていたと思う。魔法式もきちんと構築されていたし、事象干渉力も十分な量が込められていた」
  「はい……」
ゆきの返事があいまいなものだったのは、言われたことに納得できなかったのではなく、面食らっていた為だった。
  「……あの、お兄様」
  「何だろう」
  「決してお兄様のお言葉を疑うわけではないのですが……一目ご覧になっただけでそこまで詳しく分かるものなのですか?」
  疑っていないというのは本当だろう。ゆきの口調からは、驚きの感情しか伝わってこない。
  では何をそんなに驚いているのか。心の中で疑問を形にすると同時に、答えが浮かんだ。たつは自分の「眼」について、ゆきにまだ説明していなかったことに気がついた。
  「そういえばゆきにはまだ、俺の異能のことを説明していなかったね」
  「異能……ですか?」
ゆきが首を傾かしげる。「魔法」ではなく「異能」。その意味が彼女には理解できなかった。
  「かつては超能力とも呼ばれていた能力のことだ。魔法の実用化により超能力が『超』でなくなった為、魔法学とその周辺分野では異能という呼び方が好まれている」
  「そうなのですか……」
  「まあ、これは余談だ」
  本筋と関係の無いところで感心しているゆきの意識を、本題に引き戻す。
  「お前にはもっと早く説明しておくべきだった。ゆき、俺は先天的に『分解』と『再成』の、二種類の魔法しか使えない。この二種類の魔法が魔法演算領域に常駐している所為せいで他の魔法を使う余力が無い」
  「常駐、とは……?」
  「座って話そうか」
  思っていたより説明に時間が掛かりそうだと考えたたつは、ゆきをカートの中に誘導した。
ゆきを助手席に座らせ、自分は運転席に腰掛けて説明を再開する。
  「CADを使った現代魔法の手順は通常、読み込んだ起動式に従って魔法演算領域で一から魔法式を組み立てる。魔法を発動し終えると魔法演算領域の魔法式は消去され、次の魔法式を構築する為のリソースが確保される。こうして魔法師は様々な魔法を使い分けることができる」
  「それは教わっています。使い終わった魔法を何時いつまでも自分の中に残しておかないことが、魔法演算領域の負担を減らす為に重要だと教えられました」
  「そうだな。人の意識が有限であるのと同様に、人の無意識も個人で使用できる容量・・・・・・・・・・は限られている。同時に維持できる魔法の数には限界がある」
  「はい、分かります」
  「だが俺は生来の欠陥故に魔法演算領域を、どんな魔法でも構築できる初期状態にすることができない。普通の魔法師の魔法演算領域が魔法式を構築する為のシステムであるとするなら、俺の魔法演算領域は『分解』と『再成』を構築する為だけのシステムになっている。魔法を構築するシステムの上に、『分解』を構築するサブシステムと『再成』を構築するサブシステムが固定されてしまっていると言い換えても良いだろう」
ゆきが口を片手で覆い、目を見開いている。驚きの声どころか、息を音も無かった。
  「魔法式を構築するシステムの全てが『分解』と『再成』のサブシステムに覆われてしまっている所為せいで、他の魔法式を組み立てられない。俺はこの二種類の魔法に特化した、ある種のBS魔法師なんだ」
BornSpecialized魔法師。先天的特異能力者、先天的特異魔法技能者とも呼ばれる、特定の能力に特化した異能者のことだ。たつが「ある種の」と言ったのは、BS魔法師の定義が魔法としての技術化が困難な異能に特化したものであるのに対して、『分解』と『再成』は技術化された魔法だからである。
  「……しかしお兄様は、自己加速の魔法や衝撃でんの魔法もお使いになっていると記憶しておりますが?」
  「それは後付けされた人工魔法演算領域のかげだな」
ゆきが再び絶句する。「人工魔法演算領域」という単語で、母親から受けた説明を今更のように思い出したからだ。
たつの魔法師としての欠陥と、人造魔法師計画。
  すぐに思い出せなかったのは「魔法演算領域に常駐」という耳慣れない表現の為だ。だがその内容は、おきなわで戦渦に巻き込まれたあの日、国防軍のシェルターで、確かに聞いていたことだった。
  「申し訳ございません!」
ゆきは腰から上をひねって運転席に身体を向けた状態で、ほとんど倒れるように頭を下げた。ここが車の中でなかったら、地べたに土下座していたかもしれない。
  「どうしたんだ? お前が謝らなければならないようなことは、何も無かったと思うが」
たつは慌てるでもなくそう言って、ゆきほおに手を当てた。
  そのままそっとゆきの身体を起こす。
  突然のスキンシップ、それも恋人同士でなければ行わないような触れ合いに、ゆきの顔が真っ赤に染まる。しかし彼女は、たつの手から逃れようとはしなかった。
  「……いえ、何でもありません」
たつの生涯完治することがない古傷をえぐった自分の罪をざんし、その罪の重さに相応ふさわしい罰を受けたい。それがゆきの本音だった。だが何でもない顔を見せてくれている兄の気遣いを無駄にするのは、更に罪を重ねることになるとゆきは思ったのだった。
  「おかしなやつだな」
たつの手がゆきほおから離れる。
ゆきは「あっ」と声を上げそうになった。
  甘いぬくもりが去っていくのを惜しいと感じた自分に、彼女の顔はますます赤くなった。
  この時のたつはまだ、ゆきが恥じらっている理由を推測できる域には達していない。予想外に激しいゆきの反応に戸惑いを覚えながら、彼は話を戻した。
  「人工魔法演算領域に頼らない俺本来の能力は『分解』と『再成』。『分解』は構造情報を直接分解する魔法だ」
  「直接……?」
  恥じらいと陶酔に染まっていたゆきの瞳が、再びきょうがくに満たされる。彼女の魔法師としての頭脳は、まだティーンエイジャーにも達していないにもかかわらず兄の言葉が異常であることを直感的に理解した。
  「構造情報を分解することにより物理的な構造を分解する。これは魔法に共通する仕組みだな。また、起動式や魔法式を分解して無効化するといった使い方もできる。ただし霊子プシオン情報体は分解できない。俺が認識できるのは想子サイオン情報体だけだ」
  「ではお兄様は……魔法を直接、無力化できるということですか?」
たつが魔法式を吹き飛ばしてしまうことにより魔法を無効化できることは、ゆきも以前から知っていた。術式解体グラム・デモリッションと呼ばれている技術だ。しかしそれは、個体・・に貼り付けられた魔法式を、物質次元を経由する・・・・・・・・・想子サイオン流の圧力で引きがす技術。通常の魔法と違って、物理的な距離による減衰が避けられない。術式解体グラム・デモリッションの欠点が射程距離の短さとされている所以ゆえんだ。
  しかし想子サイオン情報体を直接分解できるのであれば、通常の魔法と同じく物理的な距離に直接・・縛られることはない。また、術式解体グラム・デモリッションが苦手としている広大な領域を対象とした魔法にも問題無く対処できる。
霊子プシオン情報体を分解できないのは欠点にならない。霊子プシオン情報体に働きかける系統外魔法も、その本体は想子サイオンで構築された魔法式だ。想子サイオン情報体を直接分解できるということは、全ての魔法を無効化できるということを意味している。
  「俺たちが魔法と呼ぶものであれば、無力化できる」
ゆきとうぜんとしたまなたつへ向ける。
  妹が「よつ家の次期当主は自分よりも……」などという危険なことを言い出しそうな気配があったので、たつは機先を制すようにたび、話を戻した。
  「俺のもう一つの能力、『再成』はエイドスの変更履歴を遡り、二十四時間以内の、任意の時点のエイドスをコピーして現在のエイドスを上書きする魔法だ。エイドスを上書きされた物体はコピーした時点から外的要因による変更を受けず時間だけが経過した状態で定着する」
ゆきも今度は、すぐには理解できなかったようだ。目を伏せて考え込んでいる。
  しかしたつがもう少し詳しく説明するべきかと考えたところで、ゆきは視線を戻して彼と目を合わせた。
  「……お母様とわたしを救ってくださったのは、その魔法なのですね」
  「そうだ。よく分かったな」
たつゆきの理解力の高さを褒める。
  だがその称賛は、ゆきの心に届いていなかった。
  ──自分の解釈が正しければ、それは既に起こった事実を書き換える魔法だ。時を巻き戻し、過去の悲劇を無かったことにする。二十四時間以内、かつ物体にのみ作用するという制限があるとはいえ、それはまさしく奇跡ではないか。もしも二十四時間という制約が無かったら、それは人のなし得ることではない。神のわざだ──
ゆきは、そう思った。畏れに打たれ、身を震わせた。
  「どうしたんだ? ゆき、寒いのか?」
  「いえ、何でもありません」
ゆきは心を落ち着けるべく、深く息を吐き、吸い込んだ。
  ──この程度で動揺するのは間違っている。
  ──この程度の「すご」は当たり前だ。
  ──だってこの方は、わたしの「お兄様」なのだから。
  自分にそう言い聞かせることで、ゆきは心と身体の震えを止めた。
たつには、ゆきがそんなおおなことを考えているとは分からない。ただ落ち着きを取り戻したのは見て取れたので、かんじんの、ゆきの疑問に対する回答に移ることにした。
  「分解と再成を使いこなす為には、想子サイオン情報体に記述された内容を理解しなければならない。エイドスや魔法式を一塊の情報体として捉えるだけでなく、そこに含まれている情報を認識できなければ、この二つの魔法、特に再成は使えない。逆説的だが、分解と再成を先天的な魔法として身につけていた俺は、それを使いこなす為の『眼』も与えられていた。『エレメンタル・サイト』と呼ばれる能力だ」
  「エレメンタル・サイト……。それは、知覚系魔法の一種ですか?」
  「魔法といえば魔法だが、そんなに特殊なものではないよ。情報次元イデアに存在する、想子サイオン情報体を読み解く力。それは魔法師ならば誰もが持っているエイドスを認識する力を、単にレベルアップしただけのものだ」
けんそんだ、とゆきは思った。少なくとも自分には、想子サイオン情報体に記述された内容を全て読み取ることなんてできそうにない。彼女はそう感じていた。
  妹が心の中で自分を卑下していることを、たつは何となく察した。だが口で説明して、いきなり理解させるのは難しいということも承知していた。
  「ニブルヘイムがいかなかった理由が分かったのも、エレメンタル・サイトで『』ていたからだ。だから信用してもらっていい」
  最後の一言は、ゆきにとって完全に不必要なものだった。
ゆきたつの言葉を全く疑っていない。
  「もちろん信用しています、お兄様」
  そんな分かり切ったことをわざわざ口にしなければならない。ゆきはそれを、わずらわしいとは思わなかった。
  兄が全知全能ではないという当たり前の事実の、ほんのさいな証拠に、ゆきは少しあんしていた。

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