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◇ ◇ ◇
結局初日は、達也のアドバイスがあっても、目立った成果は無かった。といっても全て未発動に終わったのではない。大体五割の確率で冷却領域の形成自体には成功した。しかしその作用範囲が、狙いに完全一致したケースは無かった。
「気を落とす必要は無いぞ。できないから、練習するんだ」
食堂で夕食を済ませ、宿泊する部屋に戻って、達也は表情が硬い深雪に慰めの言葉を掛けた。
「はい……。それは、分かっています」
深雪はそれに、上の空で答えた。
頭で分かっていても気落ちは避けられないのだろう。感情は理屈ではどうにもならない。その程度のことは、十三歳の達也にも理解できた。
達也は無言でキッチンに向かった。せめて甘い飲み物でも用意してやろうと思ったのだ。
「あっ……! お兄様、わたしがやります」
しかしすぐ、その背中に深雪が追いついた。
「だが、疲れているだろう?」
「いいえ、わたしがやりたいんです。お願いします、お兄様」
「そこまで言うなら……」
達也は深雪にキッチンを譲った。身体を動かしていた方が、余計なことを考えずに済むのかもしれない、という思いもあった。
達也が考えたように、深雪の後ろ姿は無心で御茶の用意をしているように見えていた。
「──お兄様、どうぞ」
しかし二人分のカップをテーブルに運んできた深雪は、さっきまでと同じように硬い表情になっていた。
「ありがとう」
カップを手に取り、深雪の顔を盗み見る達也。彼の視線に気づいたのか、深雪が顔を俯かせる。
上手くいかなかったことを恥じる必要は無い、と声を掛けても意味は無いだろう。達也は深雪の態度を見て、そう結論した。
「今日はもう、風呂に入って休んだらどうだ」
達也の言葉に、深雪がビクッと身体を震わせる。
「お風呂……あの、お兄様は……」
「俺はお前の後で良い」
「わたしの、後……」
何故か激しく動揺する妹を見て、達也は自分が使った後のお湯を見られるのが嫌なのだろうか、と首を傾げた。
浴室が独立しているとはいえ、部屋に備わった風呂はホテルに良くあるようなユニットバスだ。浴槽に溜めたお湯を使い回したりはしないのだが。
「俺が先に入った方が良ければ、そうするが?」
しかし、深雪も所謂「お年頃」だ。こういうことは理屈では無いのだろう。達也はそう考えて、妥協案を提示してみた。
「──お兄様、お先にどうぞ」
「分かった」
自分がさっさと済ませた方が、深雪も早くベッドに入ることができる。達也はそう考えて、入浴の準備を始めた。
浴室の扉が閉まる音を聞いて、深雪はホゥッと安堵の息を漏らした。
彼女の表情が硬かったのは、上手くいかなかった練習に気落ちしていたからではない。
普通の状況なら落ち込みもするだろうが、今夜はそれどころではなかった。
同じ部屋に、達也がいるのだ。
今夜から達也と、二人きりなのだ。
落ち込んでいる余裕など無い。深雪はさっきから緊張でどうにか成りそうだった。
息を吐いて、状況が少しも変わっていないことに改めて気づく。
今度は心臓が激しく脈打ち始めた。
扉を二枚隔てた向こう側には──浴室の扉と、脱衣所の扉だ──一糸纏わぬ姿の兄がいる。
兄が風呂から上がれば、自分が兄の隣で、扉で隔てられているとはいえ、着ている物を全て─下着も含めて─脱がなければならない。
心臓が壊れてしまったのではないかと思えてしまうくらい、鼓動が速い。
落ち着け、落ち着け、と深雪は自分に言い聞かせた。
──幾ら恥ずかしくても、入浴しないわけにはいかない。兄と同じ部屋の中で、汗臭いままでいることの方が遥かに恥ずかしい。恥ずかしさの種類が違う。お風呂に入らないなんて、女の子として終わっている──。
「深雪、上がったぞ」
ドアが開いた音とほとんど同時に、達也の声が深雪の耳に届く。
「はい、ただ今──」
深雪はビクンと背筋を伸ばし、少し上ずった声で答えを返した。
深雪の苦難は、入浴で終わらなかった。
「俺はここで寝ることにするから、寝室は深雪が使いなさい」
達也は手早くソファベッドを広げながら、深雪にそう指図した。
「そんな、お兄様──」
「まさか同じベッドで寝るわけにはいかないだろう?」
達也のそのセリフは、深雪をからかう性的な冗談ではなく、彼女を説得する為のものだ。
「は、はい。そうですね……」
深雪にもそれは分かっていたが、中学生にもなれば相手が血のつながった兄であっても、異性を意識せずにはいられない。
既に髪も乾かしている。歯磨きその他も済ませている。
「お休みなさい、お兄様」
精一杯平静を装った声で深雪は達也にそう告げた。
「ああ、お休み」
達也の返事に一礼し、ベッドルームに入って扉を閉めた。
寝室には鍵が掛かるようになっている。
深雪はたっぷり三十秒程悩んで、結局鍵を掛けなかった。
いつもより早い時間だが、身体は疲れている。
深雪は灯りを消してベッドに入った。
ところが、眠れない。
目を瞑っても、眠りが訪れない。
身体は疲れているのに、心が睡眠を拒否している。
すぐ隣で兄が寝ているかと思うと。
すぐ隣に兄一人しかいないと思うと。
興奮して、眠れない。
(わたし、興奮しているの……?)
それは何だか、とても恥ずかしいことのように思われた。
自分が思い浮かべた言葉に、羞恥心をかき立てられる。
半ば無意識的に、何度も何度も寝返りを打つ。
身悶えている、というフレーズが深雪の脳裏に浮かぶ。
その響きがどうしようもなく淫靡なものに感じられて、深雪は布団の中で身体を丸めたまま、固まった。
喉に渇きを覚えた。
だが、キッチンへ行く為にはリビングを通らなければならない。
リビングには達也が寝ている。
深雪はもう一度大きく寝返りを打って、頭から布団を被った。
そのまま羊の数を数え始める。
羊が千匹を超えた辺りで、深雪にようやく眠りが訪れた。