続・追憶編 ─ 凍てつく島 ─

8

◇ ◇ ◇

ゆきたつの二人がやきしまに来て九日目。
ゆきの練習は一日三時間のペースで進められている。一回の実行につき五分のインターバルをとり、一日三十回から四十回、ニブルヘイムを発動する。この魔法が要求するリソースを考えれば、並みの魔法師では不可能な回数だ。
  熱心な練習の甲斐かいあって冷却の事象改変は百パーセント成功するようになった。
  三日目からARメガネに表示されるターゲット用のワイヤーフレームは毎回、大きさ、形状が変化するようになっていたが、魔法の作用領域も九割以上の確率で狙いに合わせられるようになった。
  「まだ少し照準が不安定だが、今日からARの補助無しでやってみよう」
  その日の練習は、たつのこの言葉で開始された。
  「分かりました、お兄様」
ゆきは少し不安げな表情をしている。
  顔に出ているとおり彼女にはまだ、必ずできるという自信が無かった。
  しかし既に冬休みも折り返し地点を迎えている。病床の母親を安心させる為にも、ゆきは新学期が始まるまでにニブルヘイムをマスターしなければならなかった。
  それにお正月返上で、この魔法の特訓にたつを付き合わせているのだ。泣き言は許されない。ゆきは自分にそう言い聞かせた。
  事象改変に成功した回数だけで百回を超える極低温広域冷却の影響で、ようがんげんの表面はぼろぼろに崩れ砂状になっている。この島を形成する溶岩はげんがん質。それが砕けてできた黒い砂原に、ゆきはCADを手にして向き合った。
  「まずは十メートル四方の領域を指定してみよう」
ゆきの斜め後ろから、たつが指示を出す。
  「はい」
ゆきうなず、意識を集中し始める。
  ARメガネで最初に設定した広さの領域。ニブルヘイムを使うようなケースでは、おそらく最小レベルだ。
  高さは別として、広さは中学校の教室よりも少し広い程度、廊下の幅を入れればほぼ同じになる空間を白い冷気が満たすイメージを頭の中に思い描く。
  (……集中して。もっと鮮明に。壁を意識して)
  冷気を閉じ込める氷の箱。脳裏に出現した幻影に意識を集中して、その心象風景を現実と同じくらい確固たるものにしようと努める。
  イメージを、現実に。
  (ダメ、崩れてしまう……)
ゆきの指がCADのパネルに舞う。
  心の中に描き出した氷の箱が薄れて消えてしまう前に、ゆきは魔法発動のプロセスに入った。
  起動式を設計図に、魔法式を組み立てる。
  イメージを照準データに変換して、描き換える現実を指定する。
  白に満たされた氷の箱。
  それが、濃い霧に満たされた空間として顕現する。
  (間に合った……)
ゆきは大きく息を吐いた。いきなり失敗というしゅうたいさらさずに済んで、少しだけホッとしていた。
  緊張が緩むと、兄が何も言わないことが気になり始める。
  「……お兄様、いかでしょうか?」
  ついつい評価を求めてしまったのは、自分ではできたと思ったからだ。
  「良くできていると思う」
たつのセリフはゆきの感触を裏付けるものだった。
  しかし彼の声は、満足しているようには聞こえなかった。
  「どうか、たんの無いご意見をちょうだいできませんか」
  正直に言えば、この質問をするのは怖かった。ゆきは声が震えそうになるのを懸命に抑えていた。
  しかし、かずに済ませることはできなかった。それが何故だが、はっきりとは分からなかった。ただ、確かめなければならないとだけゆきは思った。
  ──実は、そんな必要は無かったのだが。彼女は肩に力が入りすぎていた。
  「……そんなにおおなことじゃないぞ」
たつは妹の場違いな悲壮感に、少し腰が引けていた。
  「作用領域を正確に定義することに意識を奪われすぎている。その所為せいで事象干渉力が十分に込められていない。今の魔法による最低温度は零下三十度程だが、ゆきの本来の事象干渉力ならばマイナス二百度前後まで下げられるはずだ。いきなりそこまで出力を上げる必要は無いが、先程のレベルの事象改変ではニブルヘイム本来の目的は達成できない」
  「──分かりました」
  二人の意識には明らかに温度差があった。
たつは単に、実行された術式の足りなかった点を指摘しただけだ。
  だがゆきは、ニブルヘイム本来の姿を見失ったことをしっせきされたと感じていた。
ゆきの思い込みに誤解。そして、ゆきの思い込みを理解できなかったたつの説明不足。
  だがたつゆきも、それに気づける程、まだ大人ではなかった。
  「もう一度やってみよう。広さは同じ、場所はあそこだ」
  時計を確認したたつが、さっきより少し北側を指差す。
  深呼吸を繰り返して集中力を高めていたゆきが、気力に満ちた顔でCADを構えた。
ゆきが両の瞼まぶたを閉ざす。
  目を開けると同時に、CADのフォース・フィードバック・パネルへ指を走らせる。
  「つきなさい!」
ゆきの口から飛び出したそれは、呪文でも何でもない。
はや心が思わず漏れてしまっただけだ。
  だが、やる気がそのまま形になった言葉は、強い言霊ことだまと化して現実をねじ曲げる力を後押しする。
  十メートル×十メートル×十メートルという狭い・・空間に巨大な負の力が生じた。
  力を加えたのでも奪ったのでもない。
  ただ、そのように書き換えられた。
  ニブルヘイムは限定された領域を均等に冷却する魔法だ。
  その魔法式には、分子運動を減速し分子振動を減速する以外に、対象領域の内と外を「温度」という現象に関して隔離する定義が含まれている。
  このときゆきが放ったニブルヘイムは正確に、縦横高さ十メートルの領域のみを、絶対温度七十度まで冷却した。
  領域指定と、冷却は完璧だった。
  だが、隔離が不十分だった。
  「きゃっ!」
  「ゆき!」
  冷気に向かって吹き込む突風に、ゆきの身体が吸い込まれそうになる。
たつとっゆきを抱きとめた。
  渦巻く風にあらが黒い砂を踏みしめる。
  一瞬遅れて、ゆきが反射的に全方位魔法障壁を張った。
ゆきは物質と熱を通さない透明なドームの中で目を見張っていた。
  いや、言葉を失いぼうぜんと目を見開いていた。
  障壁魔法の制御を失っていないだけでも称賛に値する状態だった。
  風が渦巻く。
  空からも風が落ちてくる。
  気温が下がりちっが液化したことで、気圧が大きく低下した所為せいだ。
  CADを使った魔法は、発動時に終了条件も設定する。
  この場合は持続時間。
  激しく吹き荒れていた風が収まった。ようやく気圧こうばいがゼロに近づいたのだ。
  その時ちょうど、ニブルヘイムの効力が切れた。
  冷却されていた空気が、いきなり常温に戻ることはない。
  特に今は真冬だ。諸島とはいえ日中平均気温は十度を下回る。
  それでも、空気中で液体ちっがそのまま存在できる程ではない。
  冷気が最初はゆっくりと、すぐに勢いを増して拡散していく。
  今度は接触面で冷却された空気が下降気流となって冷気の拡散を加速する。
ゆきが障壁を張り続ける中、
  彼女たちの周囲二メートルを除いて、黒かった砂原は一面、白い霜に覆われた。

「NOVELS」TOPに戻る