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◇ ◇ ◇
午前中の練習は、あれで切り上げとなった。
今は二人とも宿舎に戻り、泊まっている部屋のソファに座って飲み物で身体を温めているところだ。
「実害は何も無かったんだ。そんなに落ち込まなくて良いんだぞ」
すっかりしょげ返っている深雪を慰めようと達也が声を掛ける。
だがこの時期の深雪はまだ、達也の一言で気分が回復する程お手軽ではなかった。
「ですが、まさかあんなことになるなんて……」
予想以上に落ち込んでいる深雪に、達也は何と言葉を掛けて良いのか分からない。
既に達也が言ったとおり、実害は今のところ何も生じていない。
魔法も完全に成功したとは言えないが、失敗でもなかった。狙いはほぼ正確で、威力は申し分ない。魔法の二次的な影響をコントロールできなかっただけである。それはこれから上手くなっていけば良い部分だ。
「それも深雪は自分で防いだじゃないか。俺までかばってもらって助かった」
その言葉は、達也の予想を超えた強い反応を引き出した。
「本当ですか!?」
深雪が顔を上げて、達也の方へグッと迫ってくる。
顔と顔が接触する程近づいたわけではないが、達也はそれとなく上半身を後ろに引いた。
「わたしはお兄様のお役に立てましたか!?」
深雪がそれ以上顔の距離を詰めてくることはなかった。
その代わり、彼女の眼差しが達也の瞳を強引に捕まえた。
「あ、ああ。もちろんだ」
達也は目を釘付けにされて、ただ頷く。
「良かった……」
深雪が重ねた両手を胸の前で握り締めて笑みを浮かべる。
落ち込みから完全に回復するには至らないが、少しは元気が出たように達也には見えた。
──どうやら自分の役に立ったことが嬉しいらしい。
達也にとっては信じ難いことだが、今の流れで因果関係を読み損なう程、彼は鈍くもなかった。
ただ、事実についての推定はできても、何をどう考えどう感じてその結果に至ったのかは分からない。妹の心の動きを推し量ることは、十三歳の達也に可能なことではなかった。
自分のことを「お兄様」と呼んでくれるようになったあの日以降、深雪とは良好な兄妹関係を築けていると達也は思っている。少なくとも嫌われてはいない。彼はそう判断している。感じているのではなく、考えていた。
達也は深雪のことを、妹として愛している。
それは彼に残された唯一つの、本物の感情だ。
妹への、深雪への愛情故ならば、達也は怒ることも悲しむこともできる。深雪が笑顔でいてくれれば達也も嬉しいし、彼女が泣いている時は彼も辛くなる。
しかし、何故笑っているのか、何故泣いているのか。正しい推測ができている自信は無い。どうすれば笑ってくれるか、どうすれば泣き止んでくれるのか。それは達也には難しすぎた。
彼は自分が深雪のことをどう想っているのか知っていたが、妹が自分にどのような感情を向けているのか確信を持てなかった。
もっとも、彼に感情の欠落が無くても、それを知るのは困難だっただろう。
十三歳の少年にとって、十二歳の少女の心は、たとえ肉親であっても摩訶不思議なものに違いなかった。
会話が途切れたまま、時間が過ぎる。何となく、話を切り出しにくいムードが二人の間に形成されていた。
達也はこの空気に気まずさを覚えていた。
だが深雪は沈黙を苦にしていなかった。こうして二人でいることが好ましいのか、落ち込んでいた気分が目に見えて上向いている。
頻繁に身動ぎしているのは、時折投げ掛けられる達也の視線を意識してしまうからだ。しかし自分の心に湧き上がる恥じらいさえも心地良く感じている様子だ。
この部屋にいるのは、達也と深雪の二人きり。
それは滅多にないことだった。
二人の母親は今、入院していて家にいない。
二人の父親は、家にいる時間が短い。仕事から帰ってくるのは夜遅くだし、休日も接待という名目で出掛けていることが多い。その短い時間でさえも、達也と一緒に過ごす時間はほとんど無い。
家にいる時間が短いのは深雪も同じだ。学校から帰ってきたら、茶道、華道、日舞、社交ダンス、ピアノ、礼法、西洋マナー等々、何処のご令嬢かという習い事の数々(事実、深雪は「ご令嬢」なのだが)。家にいる間は、四葉家から派遣された家庭教師による魔法の勉強。
学校でも自宅でもそれ以外の場所でも、深雪の周りに人がいなくなる場所は寝室や浴室などのプライベート空間だけだ。そして当然、それは達也が入り込める所でもない。
この旅行は深雪が達也と二人きりになれる、ほとんど初めての機会。達也は全く理解していなかったが、深雪もまだ照れ臭くて素直に表現できずにいたが、深雪は大好きな兄と二人きりでいられることがとても嬉しかったのである。
気恥ずかしさを伴う、(深雪にとっては)ある意味で中学生らしい甘酸っぱい時間。兄と妹で醸し出すのはおかしい雰囲気だが、半年前までは家族として過ごすことすらなかった新米兄妹だ。今はまだ、こんな空気になるのも許されるだろう。
ただ、この達也にとっては気まずい、深雪にとっては甘酸っぱい時間も、長くは続かなかった。昼食時間になる前に、施設内に轟いた警報が沈黙を破った。
「お兄様、これは!?」
「噴火の警報か?」
「そんなっ!?」
動揺する深雪を目で制して、達也は内線電話に向かった。情報を得ようとしたのではない。着信ランプが点るフリーハンド端末の通話ボタンを押す。
「はい、司波です」
『失礼します。第一警備隊隊長、柳です』
通話の相手は、沖縄で共に戦った柳中尉だった。達也もこの島に到着した初日、さすがに驚いたのだが、中尉はあの戦いのすぐ後、ここの収容所に転属になっていた。
「何でしょうか」
必要なかったかもしれないが、今は話をしてもらっても大丈夫という意味を込めて達也は柳に水を向けた。
『噴火の危険があります。すぐに避難してください』
柳のセリフは、余りにもいきなりなものだった。
「随分急なことですね」
『今からおよそ四十分前にマグマの圧力が急激に上昇し始めました。その後も圧力は低下せず、たった今、警戒水準に達しました』
「噴火の予測をうかがっても構いませんか?」
インカムから回答が戻ってくるまで、短い間が空いた。
『最短で一時間後と予測されています』
しかし、答える柳の声から躊躇は感じられなかった。
達也も、表情を変えていない。
悲鳴を呑み込んだ妹をちらりと見て、すぐに視線をインカムのマイクに戻す。
「それでは、避難が間に合わないのでは」
『服役者を含めて全員を避難させるのは困難でしょう』
「なるほど、分かりました」
達也は、柳の回答を誤解してしまう程、善人ではなかった。
要するに、服役者を置き去りにして避難するということだ。
全員を一時間以内に避難させる手段が無い以上、仕方が無いことだった。噴火がもっと後になること、噴火してもしばらくは避難する猶予があることに賭けるしかない。
「二十分程、時間を頂戴できませんか」
それを納得した上で、達也は柳にそう訊ねた。
『二十分程度でしたら構いませんが、一体何をするおつもりですか?』
言葉遣いは賓客に対する丁寧さを保っていたが、柳の声には「面倒なことを」という思いが滲んでいた。
もっとも、そんなことで引き下がるような殊勝さを、達也は持ち合わせていない。
「こういう機会でなければできない実験があります。避難の邪魔はしませんので」
『時間を守っていただけるのであれば、本官は構いません。車をご用意しましょうか?』
「いえ、実験は宿舎のすぐ近くで行いますので。時間になりましたらこちらからお邪魔します」
達也は柳中尉の申し出を断ってインカムのスイッチを切った。
振り向くと、深雪が恐怖に青ざめた顔で達也を見ていた。
「大丈夫だ。三十分もあれば、安全圏まで逃げられる」
自然災害を恐れるのは当たり前のことだが、恐れ過ぎるのも良くない。必要なのは、正しく行動することだ。達也は深雪を力づけると同時に、それを教えようとした。
「火山を刺激したのは……もしかして、先程の……」
しかし、深雪が恐怖を覚えていたのは、噴火それ自体に対してではなかった。達也は深雪の言葉を聞いて、自分の勘違いに気がついた。
「ニブルヘイムの失敗が、地底のマグマに影響を及ぼしたと考えているのか?」
達也の問いに、深雪が硬い表情でこくりと頷く。
達也は自分の記憶を一通り検索して「それはないな」と答えた。
「噴火が何故起こるのか、そのシステムの全てが解明されているわけではないが、少なくとも地表の急激な温度低下が、地下のマグマ上昇につながるという説は見たことが無い。理屈の上でも、そんな因果関係は成り立たないと思う」
「そうですか……」
達也に疑いを消してもらって、深雪は安堵したようだ。硬くなっていた表情が、少し和らいでいる。
その一方で、達也は表情を変えないまま一つの可能性を思いついていた。
魔法は物体を持ち上げることができるが、そこで位置エネルギーの増加に見合うエネルギーの消費は観測されない。
魔法は物体の温度を上げることができるが、そこで熱エネルギーの上昇に見合うエネルギーの消費は観測されない。
魔法という現象において、エネルギー保存の法則は破られてしまっているように見える。
しかし魔法とエネルギーが無関係かと言えば、その命題は正しくない。達也は魔法とエネルギーに関して個人的な仮説を持っているが、それはこの際横に置いておく。仮説ではなく観測結果として、魔法とエネルギーに一定の相関関係が見られる事例が存在する。
大気中の二酸化炭素を凍らせて、できたドライアイスを高速移動させる魔法がある。この魔法を使って、気象条件が魔法に与える影響を調べる実験がかつて行われた。無論、大気成分をコントロールした無風の実験室内で。
その実験では生成するドライアイスのサイズと魔法に費やされる事象干渉力を定数化した起動式が使用された。魔法を使えるのは魔法師、つまり人間だけだから、人間という不確定要素を完全に排除することはできない。定数化した起動式の使用は、実験のたびに生じる、人に起因する誤差を最小限に抑える為の措置だ。
実験の結果は「気温とドライアイスの速度には有意な負の相関関係がある」だった。科学者たちはその結果に、このような解釈を加えた。
──二酸化炭素をドライアイスに変化させる為には、熱エネルギーを奪わなければならない。気温が何度であろうと昇華熱エネルギーは一定だが、気体を凝結させる為に奪わなければならないエネルギーは気温が高い方が大きい。高温環境下の方がドライアイスの速度が高かったのは、凝結させる為に奪い取ったエネルギーが運動エネルギーに変換されているからだ──と。
科学者たちはその説明にこう付け加えた。
──勘違いしてはならない。熱エネルギーが運動エネルギーに変換されたわけではない。この魔法現象において、エネルギーを変換するプロセスは何処にも組み込まれておらず、何処にも発生していない。ただ事後的に、熱エネルギーの減少と運動エネルギーの増加に相関関係が観測されただけだ──。
つまりそこには、事後的にエネルギー収支のつじつまを合わせようとするシステムが働いているということ。エネルギー収支をなるべくゼロにしようとする、『相殺法則』とでも呼べるものが存在することを意味している。
そのシステムがどのようなものか分からない。
だがさっきのニブルヘイムにも、その法則が働いていたとしたら。
無秩序に撒き散らされた冷気による熱エネルギーの損失を、システムはどのようにして補填するだろうか─?
(……まさか、その所為で噴火が起こりそうになっているのではないだろうな)
局所的な熱エネルギーの欠損を、噴火による熱エネルギーの増加で補う。収支は過剰にプラスになるように見える。
だが見方を変えれば、火山の噴火が起こったからといって地球の持つエネルギーが増加するわけではない。熱エネルギーだけでなく全てのエネルギーを考慮すれば、増加も減少もしない。局所的に消費されてしまった熱エネルギーが補填されるだけだ。
(局所的な調節。もしかしてそれが、相殺法則の正体か?)
理論的な仮説検証は後回しだ。
取り敢えず考えなければならないのは、相殺法則による反動対策。
いや、この場合優先すべきは──
「噴火は深雪の所為ではないが、お前の力で噴火を食い止めることはできるかもしれない」
──噴火が起こりそうになっている、この状況でなければ実行できない、魔法の実験だ。
「わたしの魔法で……噴火が止められるのですか?」
「絶対とは言えない。だが、やってみる価値はある」
どうする? と達也が深雪に、視線で問い掛ける。
「やってみます!」
深雪は即座に頷いた。