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◇ ◇ ◇
二人が宿舎の表に出たのは、警報が鳴った五分後だった。
深雪のCADに、地下のマグマに干渉する魔法の起動式は入っていない。他の冷却魔法で代用できないこともないが、先程思いついた反動の可能性を考慮すると、汎用的な術式を安易に使うのは避けるべきだと達也は考えた。
本来ならば変数を最小限に抑えた起動式をエディターで一から作成し、CADに追加インストールして臨むべき実験だ。しかし今は、時間が無い。噴火まで最短で一時間という猶予は、達也にとっても短すぎるものだ。起動式を書き上げる時間はあっても、それを組み込んだCADが安全に動作するかどうかをテストする時間が無い。
魔法師はCADから出力される想子情報体に対して無防備だ。起動式に有害なコードが含まれていても、それを無抵抗に魔法演算領域へ、心の奥底へ呼び込んでしまう。たとえ起動式の作者に悪意が無くても、ちょっとした記述ミスが魔法師の正気を失わせることだってある。
無論達也には、深雪に対する悪意など一切無い。逆に深雪を害そうとするものがあれば、それが故意でなくても、それが自分自身であっても、全力で排除しようとするだろう。だからこそ、改良ではなく新規作成した起動式を安全テストもせずに、深雪に使わせる選択肢は無かった。
汎用的な術式は使えない。
新規に作成した起動式はCADでテストしている時間が無い。
ここで達也が選んだ選択肢は──。
「深雪、手を」
達也が自分の右手を、向かい合わせに立つ深雪の前に掲げる。
「……はい?」
「手を出してくれ」
深雪の瞳を正面からのぞき込みながら、自分と同じように手を上げることを妹に求める。
深雪が怖ず怖ずと、左手を肩の高さまで上げた。
「あっ……!」
達也は自分の右手を深雪の左手に重ね、指と指を絡めた。
深雪の口から、小さな吐息が恥ずかしげに漏れる。
「深雪」
「……はい」
達也の眼差しを受け止めかねて、深雪が目を伏せる。
「今から、お前の想子を使って起動式を作る」
しかしこの思いも寄らないセリフには、顔を上げずにいられなかった。
何を言われたのか理解できず、その意味を問うことも思いつかず、深雪は自分に真っ直ぐ向けられた達也の目を見返す。
声も無く自分を見詰める深雪の瞳を受け止めて、達也は迷い無く、惑い無く、言葉を続けた。
「その起動式を使って、地下のマグマを抑え込む魔法を組み上げてくれ」
ここで達也が選んだ選択肢は、自分がCADの代わりを務めることだった。
『分解』と『再成』。この二つの魔法が魔法演算領域を占有している為、達也は他の魔法を使えない。他の構造を持つ魔法式を組み立てられない。
この欠陥を克服する為、彼の母親と叔母は達也の精神に人工魔法演算領域を植え付けた。ただ一種類を除く「強い感情」の全てを代償にして。
残念ながら人工魔法演算領域の性能は平均的な魔法師の魔法演算領域にも劣っている。スピードはともかく、事象干渉力が決定的に低い。結果的に達也は「分解と再成以外の魔法は使えない魔法師」から「分解と再成以外の魔法は三流の魔法師」にクラスチェンジしただけだった。
ただ、人工魔法演算領域は意識領域内に組み込まれている為、無意識領域にある魔法演算領域には無い特徴を持っている。それは、意識的に起動式を読み解き、意識的に起動式や魔法式を組み立てることができるという性質だ。
この性質を発展させることで彼は、魔法式を丸ごと記憶して、それを直接魔法発動に用いる『フラッシュ・キャスト』を身につけた。フラッシュ・キャストは達也だけの技術ではないが、通常のそれが記憶した起動式を魔法演算領域に送り込むことにより、CADを操作するプロセスを省略するものであるのに対して、達也のフラッシュ・キャストは起動式から魔法式を組み立てるプロセスをも省き、より高速な魔法発動を可能にしている。
しかし今の状況で必要なのは、人工魔法演算領域を使って意識的に起動式を組み立てる技能だ。四葉家における達也の評価は「強力な異能者だが魔法師としては三流」。四葉の魔法師としては失格の烙印を押されているが、四葉家で魔法の訓練を受けてこなかったわけではない。本家の者としての待遇の代わりに与えられたガーディアンの役目にも、魔法の技能、魔法に対抗する技能が必要だ。通常の四系統八種の魔法が上手く使えないのであればその代わりにと、達也は無系統魔法の技術を徹底的に叩き込まれている。
想子情報体を認識する先天的な「眼」と、幼い頃から積み重ねてきた、無系統魔法の厳しい修練。その二つが組み合わさった結果、想子を直接操作する技術に限って言うなら、達也の技量は十三歳にして既に、達人のレベルに達していた。
通常は、他人の想子で起動式を構築するなど不可能だ。だが達也が身につけた想子操作技術と、達也と深雪の特殊な結びつきによって、二人の間ではその不可能であるはずのことが可能になっている。試したことは無いが、それが可能だと達也は知っていた。
深雪も、そんなことができるのか、とは訊かなかった。
「はい」
彼女は少し頰を赤らめ、目を潤ませた顔で、一言頷いただけだった。
それで達也も、最終的な決断に至る。
必要な起動式の雛形は、部屋からここまで歩いてくる間に完成していた。
つないだ手から吸い上げた余剰想子で、雛形どおりの起動式を作成する。
それは一切の変数を必要としない、魔法師の意識的操作を不要とした起動式だった。事象改変の対象となるマグマのデータも、エレメンタル・サイトで収集して起動式に組み入れてある。どのように事象を書き換えるのかだけでなく、ターゲットの座標も、必要な事象干渉力も、必要な要素は全て記述されている。
噴火を阻止する為に必要な、残されたファクターは記述された魔法を実際に行使する魔法師のみ。それだけが、達也には担えない役割だ。
「では、起動式を流すぞ」
「……はい」
今度は、答えが返ってくるまでに一瞬以上の間があった。機械が作成した起動式を読み込むのには慣れていても、他人が作った起動式を受け容れるのは初めてのことだ。
男も女も、大人も子供も、未知の体験には恐れを懐く。特に、無垢な少女にとっては、己の中に他人が作り出したものを受け容れるという行為が何かとても恐ろしく思えてしまうのは当然であり、その恐れはあって然るべきだとさえ言えるのではないだろうか。
しかし中学生になったばかりの少年にとって、それは理解し難い恐怖だ。達也もまた例外ではない。妹が怯えているということは分かってもそこに特別な意味を見出すには至らず、時間に余裕が無いこともあって、待った無しで起動式を深雪の中へ流し込んだ。
「んっ……!」
深雪が微かに眉を顰めた。
達也の心を狼狽が襲う。
「深雪、辛いのか?」
達也は深雪の想子だけで起動式を組み上げたつもりだった。自分の想子が混ざらないよう、細心の注意を払ったつもりだった。しかし、深雪が不快感を覚えているなら、それは──。
「いえ、少し驚いただけです」
だから深雪の答えに、達也は珍しく素直に表情を緩めた。
「これは!?」
しかし次の瞬間、深雪が上げた声に、達也は再び緊張に襲われる。
「分かります……いえ、これは……見えています!」
だがそれは、失敗のサインではなく、成功の証しだった。
「お兄様、見えます! お兄様がご覧になったものが、見えています!」
達也は深雪が何を言っているのか、すぐに理解した。そして心から感心した。
魔法師は魔法発動の対象を、イメージにして魔法演算領域に送り込む。それが魔法の照準になる。
達也は魔法発動の照準データを起動式に組み込んで、深雪の中に送り込んだ。深雪はそれを、魔法演算領域で処理する過程でイメージに還元したのだ。
魔法師にとってはブラックボックスであるはずの、魔法演算領域で行われている処理。それを深雪は、断片的なイメージとしてではあれ認識したということだ。そのことが何を意味するのか、今の達也には分からない。だがそれは間違いなく、卓越した才能を表しているのだろうと彼は思った。
一方で深雪も、感動を覚えていた。いや、心を震わせている程度は、彼女の方が達也よりも遥かに激しかったに違いない。
深雪は心の中で展開されたイメージに、圧倒されていた。
地下深くに蠢くマグマ。その色、その熱、その広がり。押し退けられた焼け土と、抑え込む岩盤。それが一瞬の静止画ではなく、無数の瞬間の映像として重なり合い、同時に存在している。その重層的なイメージは、深雪が今まで目にしたことのないものだ。
「これがお兄様のご覧になっている『世界』……」
魂を抜き取られたかのように、深雪が呆然と呟く。
だが彼女はすぐに、緊張感を取り戻した。
起動式の読み込みにより自動的に活動を開始した魔法演算領域のフィードバックが、彼女に我を取り戻させた。
魔法式が組み上がり、必要な事象干渉力が自分の中から吸い出されるのを深雪は感じた。まだこの段階では、自分の外に魔法の力は放たれていない。だから自分から吸い出されるというのは錯覚だ。意識が、無意識への力の流れを誤って解釈しているものだ。
だがこの誤解が、本来意識することのできない魔法演算領域の活動を深雪に知らせた。
魔法式の準備は整っている。
照準も、事象干渉力の装填も全て完了している。
後は魔法を放つだけだ。
自動的に魔法が組み上がっても、魔法師がトリガーを引くまで魔法は発動しない。
強制によるものであろうと、自由意思によるものであろうと、魔法を放つのは魔法師自身だ。
「行きます!」
達也が設計したとおりの魔法が、深雪の決断によって地底に放たれた。
岩盤を押し割ろうとしていた溶岩の最上層部が一瞬で冷却されて、新たな岩盤に変わる。
失われたマグマの熱の代わりに、東側の火口を中心として地盤に圧力が加わる。
押し出されようとしていたマグマが急冷却して固体化したことによる体積の減少は、上から加えられた圧力に押し潰されたが、減圧が解消するまでのタイムラグに発生した火山ガスは出口を求めて島の東側へと抜けた。
噴火が起こらないように上から押さえつけている深雪の魔法が及んでいない、巳焼島の東端に新たな溶岩の通り道ができる。
噴火の圧力は、収容所に被害を及ぼさない島の東海岸で解放された。
溶岩の熱で蒸発する海水が白い壁となって、西岳の低い稜線の向こうに立ち上っているのが見える。
「深雪、お疲れ様。中へ戻ろう」
「はい、お兄様」
宿舎と収容所から慌ただしく出てくる軍人の流れに逆らって、二人は宿舎の中に戻った。